巨乳を考える日々の讒言 その17

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そしてまた春がゆき

突然視界に現れてすぐ斜め前をゆきすぎる、もちろん凝視することもできず、しかしほんの1秒にも満たない瞬間に合う焦点に自分の神経のすべてが集中する。春から夏にかけてのこの季節は明るくて憂鬱である。自分が今まで通り過ぎた夏の回数をいやおうなしに思い出さされるから。ともするとこのまま戻れない鬱の闇へと引き込まれそうになるのをなんとか意志の力で引き戻そうとする。今年もこのおっぱいが自分の前でとどまることはないであろう。素早く視界をすり抜けて後ろへ去ってゆく。これが幾夏が来ても永遠に変わることのない自分とおっぱいの関係である。

たまさかの

ここ1、2年の雑誌やインターネットにおける巨乳グラビアのデフレ現象にはそろそろうんざりしている人も多いかもしれないが、今は数え切れないほどのグラビアアイドルやAVアイドルが雑誌を飾っているように感じられるもののよく見てみるとけっこう限られた人がヘビーローテーションで登場しているのが実状のようである。こんなことを今更書くのも間抜けたことではあるが今は街には巨乳グラビアアイドル、AVアイドル以上の大きな胸の女性はいくらでもいるがその多くはモデルやアイドルになれるスタイルや器量ではないということでマスメデイアで見ることはできないだけのことである。

私がもし何の道楽でも許される立場になれたとしたら一つやりたいことがあるのだが、それは今の時代再び日本全国ボインコンテストをやる、というものである。そしてその審査基準はまさに1000%胸の大きさと魅力に特化したもので体のスタイルもまして器量など問題外、もし顔を出したくなかったらサスケさんばりの覆面をしてきてくれたってOK。そして乳房に関して微に入り細に入り計測、観察して多くの巨乳サイトのコアなマニアで構成される審査員によりベスト50を選びコンテスト記録写真集を作る、というものである。

え、50も?と思われるかもしれないが実はそれがマニアにとってのミソだったりします。この胸が好き、でもこちらも好き、こっちも捨てがたいし、ときにこういうのもいいなあ、と我が儘勝手で多様なマニアのニーズを徹底的に満たすには50人くらいがちょうどいいのではと(笑日本で最も胸の豊かな人上位50人がもしそろったらいったいどういう状態になるのか、、、まさに夢のまた夢の話である。

Tシャツ姿の外人女性を見るたびによく思うのだがブラのカップの内側から突いてその外のTシャツにまではっきりとぽっちを浮き出させる乳頭の力も外人女性はすごいもんだなあ、しかし外人女性のヌード写真を見る限りもちろん乳房全体は平均的にまだまだ日本女性より大きいものの乳頭の起立にさほど差があるとも感じられずむしろ柔らかそうに見える人も多いのだが服に乳頭ポッチを浮き上がらせている人は明らかに外人女性のほうが多いのは確かなようだし。外人女性はあまりカップに固いパットやらなにやらが入っていない柔らかい素材のものを好むのでこういう現象になるのだろうか?

これは以前にも書いたことだが日本女性は乳首が服の外からわかることに対して非常に神経質で無意識のうちと言ってよいほどこれをきちんと隠すのだが外人女性は単に乳頭の浮きだしに関して無頓着ということもあるのだろうか。

先日新聞にはさまっていた地元デパートの週末セールのチラシを見て気にいった胸の写真を発見した。とはいうものの別になんということもないただの水着の写真だし第一ぜんぜん巨乳というわけでもない。「巨乳」とはっきりキャッチコピーを掲げた雑誌を見てもあまり気に入る胸に出会うこともない今日この頃であるがなぜこのようなものに引きつけられたりするのだろうか。

思うにこれはやはり心が無防備であることがなせる業なのではないだろうか。巨乳タレントが多く所属するプロダクションからまたしてもすごい子が登場、と予告されるともう心のほうがすっかり臨戦態勢にはいって構えてしまうのだが、街で曲がり角を横切るやいなや突如横から通りすぎる巨乳の女性を見るのはガードなしの顔面にもろにパンチをくらうようなものである。巨乳グラビアや巨乳風俗案内誌に巨乳が載っているのは当たり前だがどこか自分にとっての現実性に乏しいものだが、意外性のあるところで出会う胸はかえってリアルに入り込んでくるもののようである。

「巨乳ブーム」の終息はすでに始まっている

巨乳ブームが終わる、と書くと早とちりな人はすぐに小さめな胸が受ける時代になるのか、とか大きさではなく美しさのほうが重要視されるようになるのか、というように考えてしまうかもしれないが今後も伸び率は鈍るかもしれないがより大きな胸の女性が賞賛されること自体は変わらず続くであろうし、次々大きな胸の女性が登場することも変わらないであろう。巨乳ブームが終わるというのは一言で言えば巨乳巨乳と言わなくなることの意味合いが強い。

しかし実はこの傾向はすでに 98年、99年ごろから始まっているように思われる。従来私たちはどのくらいの大きさからを巨乳と呼ぶか、という線引きを考えることが多かったがそれを考えることに意味があったのは大きな胸の人の比率が低ければこそである。以前巨乳な日々1の中で私は女性のカップサイズ分布がおよそこうであろうというグラフを示したが今回それをいくぶん修正したいと考えている。

20年前、30年前についてはかつてのとおりFig1の赤線のような分布であったと考えてよい(極大値がどこが正確かということはとりあえずおいておいて)がその後90年代末から現在の分布を以前は単に大きな方向に平行移動させたようなものを考えていたのだが、テレビで今のブラのカップサイズごとの売り上げの動きというのを見ていてはたとわかったのであるが20~30年前に比べて今は単に平均値が上がったのではなくわりといろいろなサイズのところに散らばっている、つまり分布曲線がゆるやかになって黄線のようになっているということなのであった。

さて、このようにまんべんなく大きさが分布するとどのようなことが起こるかというと大きい小さいの線引きが困難になると思われる。よく書いていることであるが同じカップサイズ内でも実際の胸の大きさや見た目の大きさ感は非常にばらつきがある。現在でもH、I、Jクラスになると誰が見てももう充分わかりやすく巨乳と認識できるがD、E、F、Gというあたりは混沌としている。そして実際グラビアでも風俗でも最も多く集中するサイズがおそらくこの範囲内であるからいずれ近い将来このあたりの人たちについて現在冠せられている巨乳の語はほとんどすべて消える日が来るものと考えている。

ちょうどこの一文を書いている時にMY巨乳史のほうに仲根かすみさん他を掲載したがこのように充分観賞の対象足り得る膨らみや谷間を持つ子もすでにあえて巨乳の形容はしないし実際見る側もそのようには感じない、という現象は広がっておりこれはもちろん目が慣れてくるということが一番大きな要因ではあるがあくまでその時代に応じた希有なレベルのものだけがマニアの観賞対象となる方向に戻っていくのであろう。ここ数年はちょうどかつての巨乳さんレベルの女性の比率が飛躍的に伸びた時期であったため一時的に巨乳と形容される人の数が増えてしまったのではなだろうか。

fig 1

誰も言わないのが不思議だったのだけど

みんなわかっていすぎて言わなかっただけなのかもしれないけど、「巨乳に恵まれる人相」ってのがあったんですね(笑それとも密かに野田社長、メイヤー監督をレスペクトしてたりして。もしイエローキャブのタレントを集めて和製のメイヤームービーを作るなんてのも想像すると面白いです。

古典的表記は役に立つ

今でも新たなグラビアモデルさんなどがデビューすると紹介で上から85-58-80という古典的なスペック表記をしている。巨乳マニアはすぐにカップサイズを聞いてそれを確認しないとなにも判断できないようなことを言う場合があるがあながちそうでもないなとはよく感じるところである。

例えば身長 168で95-60-85とあればこれは相当スタイルがよい上にかなりの胸の豊かさであろうということはすぐイメージできよう。ウエストが60である人でトップバストが95ならまあ少なくともDカップ以上であることは確実でこれでCやBであるというのはボディービル体型で胸囲が大きいというようなかなり女性としては特異な体型が考えられる。では次に105-78-95だったらどうでしょう。プチぽちゃな人がこのあたりのスペックになるだろうと考えられるがたぶんこの規格表現で一番まちまちになるのがこのあたりであるかもしれない。プチぽちゃさんは太めでも充分めりはりがある人からアンダーからウエストにかけても太く乳房そのものはあまり大きくない人までまちまちなのでここらへんは確かに判断しにくい。

ではさらにもう1段階あげて140-100-120という激ぽちゃさんの領域になるとどうでしょう。ここにくるともうトップバストのサイズは判断の決め手とはならずむしろウエストとヒップのサイズからバストの状態をイメージするほうが確かであるかもしれない。外人の爆乳中年女性にあるような脚などは細いのに上半身のボリュームがすごい人ならばしめたものであるが逆に下半身がぽちゃである人の場合はあまり胸のほうはボリュームがなかったりすることが多いのでこれまた判断が一か八かというリスクは残る。

しかしいずれにせよこの3箇所のサイズをよくよく考えてイメージすると安直にカップを聞く以上にかなり全体像がイメージできるだろうということはご理解いただけるかもしれない。しかしスリーサイズからのイメージ作りで実は身長という情報が欠かせないということは言うまでもない。

ただ一人のおっぱいで幸せになるには

「一つのおっぱい」というと左か右どっちか一つのような印象を与えるので「一組」とか「一対」というのがいいのかな?

あなたが充分に豊かな胸の女性を恋人や奥さんにしたとしても世の中にはいくらも上がいるものでそれ以上のすごい胸の女性を街で見かけてしまえば興味を引かれずにはいられないだろうし、逆に大きさはさほどでもなくとも自分が慣れ親しんでいる彼女の胸とは違うタイプのものを見てみたい欲求も抑えきれないものである。

もちろんあなたは彼女や奥さんを心から愛しているのであって他の人のおっぱいはそのようなこととは別のもの、例えばサッカーが好き、スノボに夢中、車が一番、というようなことにむしろ近いのかもしれないがそんな説明をしても許してもらえないかもしれないし。

1985年淫乳part3オーディション。左から西条美栄、清元香夜、上条理沙さん。 80年代前半に街を席巻したハマトラファッションと今では重たい印象のレイヤーヘアが時代を象徴していますね。そしてなによりこのおっぱいの形こそがこの頃の豊乳の代表的なものです。しかし3人の中では一番小振りですが上条さんのおっぱいがその後の90年代以降の胸の形へ進化する原型であるように思われます。
(画像ご提供いただきありがとうございました)

そしてまた覗き見心理について

某地方局の豊乳アナウンサーに関する一連の出来事は2003年の巨乳に関するおそらく最大の話題の一つであろう。もしこの人があたりまえにどこかのプロダクションから水着グラビアで登場していたとしたらもちろんそこそこの人気は得たかもしれないものの所詮は普通の日常繰り返されている事柄の一つにすぎない。

しかし様々な要因が異常に彼女の存在を不自然なほどにクローズアップさせてしまった。地方局でしかも大都市圏ではないところでのみ見られる存在として登場したこと、全く巨乳を売りにするような仕事ではないこと、などであるがこのようなことが起こると必ず思い出さされるのは1970年代の末にニューヨークのウォール街で起こった一つの出来事のことである。ウォール街に勤めるごく普通のOLさんがあるとき街中の男性の間で口コミで大人気となり彼女が降りる駅の前に出勤する彼女の胸を見ようとすごい人だかりができたというものであるがいろいろなことがジャストなタイミングで重なるとこのような異常な現象が起こる。

その女性はB105くらいの巨乳さんであったがしかしアメリカ人女性の中にあっては驚くほどの大きさというわけではない。その後目立ちたがりのアメリカ人気質らしく数人の爆乳女性が私のほうが胸は立派よ、と次々とウォール街を歩くということがあったがそれらの人たちはストリッパーであったりするつまりその道のプロなので別に面白くもなんともなく話題にもならなかったようである。毎週のように雑誌などで「巨乳でーす、どうぞ見てくださーい」と前に出されてももう食傷気味、お腹いっぱいですから、と断るような雰囲気がただようこのごろにあってもやはり単におっぱいが見たいということとは別の重要なフェチ心理というものが強く作用しており常に何かを探し続けているのである。

ちなみにその後の彼女の不倫スキャンダルは雑誌社としては美味しいネタであるかもしれないが実は巨乳好きにとっては水をさされる迷惑な話であったということも言うまでもない。フェチはみんなで共有できるような話題であるようだが実はそうではない、あくまで個人個人の閉塞した内面の問題なのであると思っている。

いきなり少々乱暴な結論から書いてしまうと私が常に感じていることとして「本当の巨乳さんにナイスバディーはあり得ない」という原理がある。顔のことはとりあえず別においておいて体だけで考えるのならばこの原理から言えばグラビアアイドルに本当の巨乳は望めない、ということになる。

しかしこれには私自身が異論を持ってしまうところがあり松金ちゃん、夏目さんは疑うべくもなく巨乳さんであり彼女たちはすばらしいプロポーションをしているからこのレベルでは巨乳とナイスバディの折り合いはつくものである。しかし仮に1960年代にいきなりタイムマシンで松金ちゃんの写真を持っていってその時代の男性に見せたらもしかしたらバランスが不自然で変だ、という感想が返ってくるかもしれない。おそらく均整のとれた体型と胸が大きいことの折り合いの限界は時代が進むとともにじわじわと変化はして昔なら大きすぎる、と感じる大きさを今は当たり前に受け入れられるようになっているものであると思われる。

しかしながらいずれに時代においても明らかにバランスを逸脱しているレベル、本人としては大きすぎて邪魔でしかたがない胸の女性が存在し、その人たちはもちろんグラビアモデルなどになろうはずもなく、それどころかいかにその不便きわまりない大きなものを目立たないようにして外出するかに苦慮する毎日を送っていることのほうが多いのであろう。コラージュで異常に胸を大きく加工した写真や手術で不自然に豊胸させた胸は不自然に感じるものであるが、胸と体は独立して成長するものではなく体は必ず大きな胸になるためにはそれに対処する形になろうとするものである、ノーマスティッツの写真などを見てもこれは容易に納得できるところであろう。黒人の強靱な体を持ってしてもあの胸をささえるためには体の反対側も発達しなくてはならない。そしてある程度以上の肥満も必然、あるいは必要条件になるのであろう。

ここ数年は空前の巨乳ブームと言われるがそれでも体の前全体を覆ってしまうような巨大な乳房の女性を好む嗜好は依然として際物扱いを受けたままのようである、しかし私はこちらがむしろ巨乳フェチのゆきつく当たり前の姿ではないのかと思っている。先ほどから「バランスが悪い」という言い方をしてしまているがそもそもそのようなこともミスコン的審美感覚に基づいているものである。豊饒の象徴であるおっぱい、そう哺乳類なんだものね、人間も。

パラオの出産祝いの光景

出張も5日を過ぎると疲れてしまって東京まで戻ってきてそこからまた電車が長いということでうんざりしてしまう。新幹線を使いたくなるが最後の力をふりしぼるごとくローカル線に乗る。するとそのがんばりの御褒美というか太めで巨乳の女性が座っていた。1時間くらいは立っていかないといけないがこれでその我慢もできそうだ。

しかし「太め」と「ぽちゃ」は境目があるようでないようで難しい。自分がこれはぽちゃではなくて太めだ、と思ったらそうなのだ、という程度の超主観的なもののようだが無理にそれに判断基準を与えるなら例えばお腹のほうがゆるく多段になっているのはぽちゃ、しまっているのだが細くはなれないのが太め、みたいなことも言えなくはないが、どっちかというと「質感」(テクスチャー)が重要にも思える。なんかぜんぜん発展性のない話しなのでやめましょう。

予想どうりその女性は通勤圏の限度と言えるあたりの駅で下車し、私は限りなく太めだが決してぽちゃではなく、中華街で売っている大きい肉まんのようにふっくらした胸を名残惜しい気持ちで見送った。新幹線を使わずに浮かせた旅費でやっと生活していくなんて楽じゃないなあしかし。

ひそかな楽しみの思い出

神奈川県に住んでいたわずか1年とちょっとの間はいろいろ慣れない会社勤めの始まりとはいうものの、地方勤務ということで背広で行く必要はなく、職場でも作業服を着ていればいいのでその点だけはとても快適だった。駅前の新築のワンルームマンションは外見はとても立派だったがその実隣どうしの壁は薄かった。

隣の部屋に住む男性が初めて彼女さんを部屋に連れて来た日、自分は部屋で一人でシーケンサーを使ってしこしことドラムパートの打ち込みをしていた。こういうことをやりはじめるとほとんど外に出ることがなくてそれこそ中毒であるコーラが切れたら買いに行くくらいのものである。昼過ぎに彼女はやってきて昼食を作っていっしょに食べているらしくずっと楽しそうな談笑が続いていた。考えてみたらそのことは当然起きてしかるべきだったのだがそこでも悲しいかな自分はそういうことへの未経験から全く予想していなかった。

夜8時近くなったころヘッドホンを外して「ふ~っ」と一息いれてさあ、コーヒーでも入れようかなあ、と思ったとき、なんか静かになっていた隣の部屋から女性の高い声が聞えた。聞えたとたんにもまだその意味がわからず思わず「!!??事件か!!?」と思った(つくづくアホ)。しかしその後にビデオで見たことがあるような「あ~」という悩ましい声に変わりやっと2人がエッチを始めたということが理解できた。なんか壁を通じていやらしい空気が伝わってくるような感じに包まれて自分は思わず壁際に行ってそっと耳を壁につけた。姿が見えるわけでもなく声が聞こえるだけなのにこの臨場感、リアルなムードはやはりAVビデオの比ではない。その日からすっかり壁に耳をつけての盗み聞きが楽しみになった。

しかし隣の彼は平日には絶対彼女は連れてこず、土曜の午後か日曜にしか連れて来なかった。しかし土日にはおどろくほど外出せず2人で部屋で過ごしていた。初日は昼過ぎに連れてきて夜8時くらいまで機会を狙っていたのだろうか?翌週からはがらっと変わって約6時間毎にエッチをしていた。面白いことに明け方はすごくあっさりとしていて昼下がりはけっこう濃厚のようだった。日曜の夜8時ごろのをラストにして終了後1時間ほどすると彼は車で彼女を送っていった。きっと彼女も月曜からは仕事なのだろうが毎週規則正しくそれを繰り返す姿は微笑ましくきっと彼はかなり真面目なんだろうなあ、と思った。

彼は私が観察する限りはまったく浮気はしていず、これは確実じゃないかな。週末2人でじっとりと過ごすのが何よりの楽しみのようで薬の投与みたいに規則正しくエッチをしていたし。自分はそれを聞くのが楽しみでよりよい楽しみのためにいくつかの工夫をこらした。彼や訪れる彼女の姿をマンションの入り口付近で見かけることがあったのでイメージをリアルにするためにその姿をよく観察した。彼は私と違ってとてもがっちりとした逞しい体だった(よしよしぼくみたいなやつだとちょっとがっかりするから)。きっと性器も逞しいのであろう。彼女はそれに比較してとても小さくて華奢な感じだった、もっと肉感的なエッチな雰囲気を振りまいている人を想像していたのでこれは意外だった。だからこの2人の行為を想像すると体の大きい彼はほとんど彼女を完全に抱え込むような感じになるだろう。

ぼくは1日中カーテンを閉めてひっそりとなるべく音をたてないように注意して隣のカップルが警戒しない体制を整えた。最初の1声が聞えるとエアコンも止め部屋の電気がついているときはそれも消して真っ暗にした。月明りがカーテンの間から差し込んできてとても幻想的なムードになった。映画の中の異常な主人公になったような気分であった。壁に耳をつけたままでの一人エッチもマスターしていたしだいたい2人が何分くらいで終わるかも把握しているから非常に気持ちのいい一人エッチを楽しませてもらえた。その節はほんとにお世話になりました。

6時間毎にエッチができるくらいの欲求の強さだから平日は彼も一人エッチをしていたんだろうか?それはわからなかった。あまり彼は声を出すタイプではなく女性の側の声だけがとても激しく聞えてきて、最後の最後だけ彼の「ハッハッハッ」という体育会っぽいあえぎが聞えてきた、そのハのストロークの長さから推測しても相当立派な性器であると思われた。自分ならその1/3以下のテンポかな。その後2人が結婚まで至ったか悲しい恋愛物語りになってしまったかは残念ながら確認できないまま自分は今住んでいる土地へ移ることになった。

しかし約1年の間喧嘩をしているような様子の日は1日もなくほんとに相性のいい素敵なカップルであるようだった。彼が土日も不在の日に彼女は部屋へ来て、掃除や洗濯、かたずけをして2時間くらいで帰っていったことがあり、かいがいしい世話ぶりにはちょっと感動した。素晴しいものを聞かせてくれたそのカップルができることなら喧嘩別れや外部の圧力などで別れてなどしまわず2人で幸せなゴールインをしていたら、と願っている。これは楽しませてもらった自分からのお礼の気持ちも含めて心よりそう思っている。12月の晴れた寒い日名残惜しい気持ちで私はそこから北の土地へと引っ越しをした。その日曜も彼女は隣に来ているようであったがさすがにその日にその声を聞くことはできなかった。その日はクリスマスイブであった。

結婚ということをとりあえず横に置いておいて男女はなぜつきあうんだろうか。こういうことを不思議に感じられるのも自分の特権みたいなものだが何で息をするんだろうとか物を食べるんだろうということは私もさすがに当り前と感じているので考えはしない。世の中にはきっとこのようなことにも疑問を抱いて考えている人達は多くいるのであろう。

あれこれ自分について考えているうちにエッチという刹那的な肉体欲求以外には自分には女性とことさらつきあいたいと思う気持ちは無いらしい、ということがわかってきた。今はたまたま得意技の「超片思い」をしていないせいでそう思うのかもしれないと思ったが片思いしている最中に本当に自分がその人と「つきあいたい」という欲望を持っているのかどうか。という疑問にぶち当たる。もちろん片思いをしているときにはその人のことを考える度に胸はしめつけられるし切なさでいても立ってもいられない気持ちになるのだが、現実につきあうという状態はイメージされていない。どうやら自分は最初からつきあいたいができないのでしかたなく片思いをしているというよりも片思いをしたくて片思いをしようとしているようである。

言うまでもなく胸が最も重要なパーツである私の場合、好きな女性の胸に思いきり甘えるシーンを思い浮かべるのだが、本当にそうなったときのそれ以外のわずらわしいもろもろの事柄を思うにつけてうんざりするのである。この前のように自分で意図せずにだれかの紹介で女性に会い、なぜかそれほど意図せずにもう1度会うことになると相手に対して片思いはおろか特別に何の感情も持っていず、白紙の状態である分、自分がいかに女性とつきあいたいと思っていなかったのかということをよく思い知らされた。しかし会って話しをしていくうちにこのように相手の人柄などを理解した上でもしかしたら今までやってきた「片思い」とは全く異なる形の「好きである」という気持ちになれるのかもしれない。そんなふうに考え始めた矢先、すべてが終わってしまうのであるが。

80年代

借金に追われて逃げる気持ちだけはちょっといわく言い難いものがある。やっと 15年も前のことになってくれたか、という感じだが、デパートの人ごみにわざと身をおきながらも外に黄昏が迫って、もうすぐ閉店となりここを出なくてはならないときの脚から力が抜けて身の回りのものが斜めに歪んで見えるあの感じ。

ただ一つ覚えているのはそれは7月7日だったということである、なぜかというとその七夕の日は、今は仲のいい友人の奥さんとなった女性の誕生日で、そんな状況のくせになぜか自分はそのことをデパートで思いだし、なけなしの数百円のお金でその子にあったらあげよう、と誕生日のプレゼントを買ったのである。なんでそんなことをしたのかわかる人はわかるかもしれない。そう、ただでさえ小心な自分はあまりの怖さから今置かれている現実からトリップしてしまいたかったのである。心が大切なことを考えないでそのようなことを考えたがっていたのであろう。

とはいうものの夜になりデパートも閉店の時間が近づくと、ついに最後の力をふりしぼってものを考えなくてはならなくなり、断わられることを覚悟で何人かの人に何もない自分への貸金をお願いしたのである。ほんの200万にも満たないお金で東京湾に沈んでしまうくらいなら恥も外聞もかなぐり捨ててお願いするしかないと考えたらなぜかまだ何も解決したわけでもないのに妙に気が楽になった。そのとき助けてくれた人に恩はもちろん忘れていないけどあんまり良くしてあげてるとも言えないな。もうちょっとしばしばその頃のことを思い出さないといけないだろう。

10数年たって自分もカードなるものを持てるようになったがあまり使う気にならない。あのころの自分への銀行の態度を思い出すたびに銀行や銀行員への的外れな憎しみが湧いてしまうこともあるがなぜあのような髪、あのような服、あのような話し方をしているのだろう。やっていることなんてはっきり言ってサラ金街金と同じかあるいはもっと悪いことなんだろう、自分たちで何一つ役に立つものを開発したり生産したり処理したりするわけでもないのにそのための資金を握っているというだけで世間で一番偉そうな顔をしている最低な業種の分際で、それでいて今になって自分たちのミスや悪事の後始末を公的資金で救済もないもんだと思ってしまう。
(注、これはもちろん金融業というものに関する間違った考えではあるでしょう、あくまで私の感情を書いているだけですからあしからず)

それにくらべて紫色の品の悪い背広で「借りたら返すのが当然やろが!返すのか返さないのかどっちや!」と言ったお兄さんのほうがはるかに単純で裏表がなくてわかりやすい。そのときやはり助けてくれた友人の一人がそのころの私の人相はひどかったよね、と先日話していて笑っていた。幸いそのころの写真は無い。あーよかった。

アルテミッシュナイト時代のみなみさん

トラックを転がしている女性にけっこうほろっとくることが多いようだ。今朝方も駐車場が広いコンビニで4トン車から降りて店に入ってきた女性をかっこいい、と思った。体はがっちりしていて茶色い髪を後ろで束ねておさげにしている。ハイテクスニーカーに紺のトレーナー、そしてもちろん胸は相当に大きそう。(ここはもちろん要なのだが不思議なくらいこの手の女性で胸のない人は見かけない、やっぱり鍛えてるのかな)。

がさつというわけではけっしてなく、しかし動きはきびきびしていて、手首には唯一のおしゃれのカラーゴムをつけている。このような女性はこのような女性で別の意味で自分にとっては手の届かない高嶺の花である。きっとこんな女性は真に男らしい人を好むんだろうなあ、そんなことを思うといつものようにコンプレックスがじんじんうずいてくる。いかなる種類の女性でも「いいな」と思った瞬間からすべて高嶺の花になっていく。もし自分が自分に釣合がとれると感じられた女性はそのときから憎悪(それも近親憎悪に近い)と不快、やりきれなさの対象になっていくのである。

これを考えた後、ある雑誌で「なぜ文系のぼくらがヤンキー女性に憧れるか」とかいう特集記事が出た。ちょっと違うかな。何度も同じことを書くが「絶対できない、と思いこんでいればどんなことだってかなわないようにできるもんである」真面目な男の子にとっては不良は恐ろしいし危うきに近寄らずの存在でしかない、しかしその中に混じっている大人びた女の子は自分の手の届かない危険な世界に咲く百合の花のような存在なのである。バイトで交通整理をしている子たちから1流の会社オフィスで外国語を駆使してバリバリ働く女性が「無理め」であるようにその逆の無理めも存在するのだ。

夏の間は真夜中に車で長距離を走って戻ってくるのもいいものだがめっきり寒くなってきた。しかしそれでもまだ途中のコンビニでアイスクリームを買って、少し先の側道に車を止めてそれを食べるのがくせになっている。

真っ暗な畑の中の側道で思いっきりSPEEDの中で一番好きだったSTEADYを歌ってみる。世の中にはままならないことなんていくらでもあるのだし、それなのになぜ逆戻りしない時間だけが唯一のどうしようもない後悔としてこの身をさいなみ続けるのでしょうね。

「あー街にとびこめば、いつもの仲間に出会えるけど
変わり始めてる私を誰も知らない、、きっと、、」

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