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シドニーローム、ジュリアパーク、シェリー、ハニーレーヌ、ステファニー、サビーネ、そしてアグネスラム、、1975年ごろの男性週刊誌の見出しは毎週のようにこのようなカタカナモデルの名前で埋められていた。

日本中の大学を巻き込んだ70年安保闘争も終焉をむかえ引き続き起こったオイルショックがおさまりこのころから学生のスタイルはひたすらレジャー、コンパと学園生活をエンジョイする方向へと転換する。

サザンオールスターズやツイストもこの年デビュー、戦後文化の成熟と共に週刊プレイボーイはすでにトップ男性週刊誌の座を固めつつあった。しかしビキニスタイルという水着が登場してからすでに10年以上が過ぎていたにもかかわらずまだまだ日本女性モデルの水着グラビアの胸は外人に比べて寂しいものだった。ビキニのブラが乳房の先端半分以下の範囲しか隠せないような純国産グラビアアイドルの出現、これこそが多くの豊乳願望を抱く男性が口にこそ出さずとも潜在的に求めていたものであったのだ。

そんなある日、相も変わらず外人の名前が居並ぶ水着、ファッション、化粧品などのキャンペンガールの紹介の中に名字がひらがなという一風変わった日本女性の名前があった。するどい視線、黒い皮ジャンに包まれたその大柄な体こそが後に百花繚乱を迎える「巨乳の時代」の扉を開いた女性、かたせ梨乃の豊乳ボディーとの出会いだった。

 

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1980年代に入るとオールナイトフジなどに代表されるように女子大生がテレビに氾濫することになったが当時はまだ女子大生をしながらタレントになることが話題となるような時代であった。

LAOXのあの乳房を激しく揺らすかなりエグいCMを見て彼女の両親が嘆いた、という話を後に彼女がトーク番組で話していらっしゃったがまだ世間知らずなお嬢さんであったそのころのかたせさんにとってはそれこそ人さらいにだまされて芸能界に連れてこられたごとき状態であったのかもしれない。

当時はまだテレビ番組のジャンルというものが限られていてその中でバラエティー番組というものも確立はされていなかった。深夜番組についてもまだまだアンダーグラウンド性が強くかろうじて老舗番組である11PMがその中で多くの有名な司会者を輩出し深夜番組の地位向上へ奮闘しているところである。

かたせ梨乃はほどなくその11PMのマスコットガールに選ばれる。まだまだ巨乳なアイドルはきわもの的扱いを受ける風潮が強い時代であったが彼女のはその有無を言わせぬほどのナイスバディーで次第に芸能界でもしっかりとした存在感を得ていった。

 

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彼女のCMデビューがヤマハであったということはその後変わらず続くことになる彼女のややきついアグレッシヴなイメージをそのまま象徴していたと言えるだろう。

ビール、カクテル、夏の旅行、エアコン、化粧品といったグラビアアイドルならではのさわやかイメージとは異なる「闘う肉体」の魅力、そして彼女はまだ成功者がほとんどいなかったグラビアモデルから本格的女優になるパイオニアとして実際に旧体制と闘うことになっていくのである。

 

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かたせ梨乃がデビューしてから25年、早4半世紀近い年月がたった。

しかし今でも警視庁が作成したかたせさんのシートベルト推進のポスターは日本の巨乳画像の歴史上3本の指に入るものであると私は確信している。このポスターはかたせさんのデビュー仕事ではなくすでにヤマハのCM他のグラビアで有名になり始めていたのにもかかわらず不覚にも私はこのポスターを見たときモデルがかたせさんであるということにすぐには気づかず「あ、これは外人女性だな」と思ってしまったのである。

後で知ったことであるが同じように思った人は相当いるらしい、与えられた情報ではなく目隠しテスト的に見せられたかたせ梨乃さんがまさに当時にしてみれば完全に「日本人離れしたボディ」であることが実験的に証明されたと言ってもよいだろう。

 

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80年以降まだまだグラビア、モデルとしての露出を続けてほしいと周囲が期待していたものの少しずつ彼女は時代劇やドラマなどへの活動にシフトしていくようになる。今でこそこのようなことは当たり前のことであるがモデルからタレントへという移行をスムーズに行うということは当時はまだまだ手探りの時代であった。

彼女自身のネームバリューは十分に芸能界で浸透していたもののまだグラビアアイドルというものは他のタレントに比較して今以上に数段下に見られていた、というよりむしろそのような職業そのものが認知されていなかったと言ってよい。当時グラビアアイドルとして圧倒的な人気を博したアグネスラムに対してすべての面で勝るとも劣らないボディーパーツを披露した彼女に対してもしそれを支持しない要素があるとしたらそれはむしろそれを見る当時の男性の側の感性であったといえるかもしれない。

まだ巨乳で大柄な体格の日本女性をグラビアモデルのまま受け入れ続ける心の準備が整っていず、グラマーというよりは清楚でかわいいというイメージをアイドルに求める状態は強く残っていた。それゆえアダルトな番組でその肢体を誇示することができるような彼女が一般の女性アイドルとは一線を画した存在として扱われてしまうことになったのである。

トレンディードラマなどというものが登場するのもまだ数年先のことであったから地味ながら時代劇への出演を選んだということが結果的には成功であったということであろう。

 

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寄せて上げた胸だけを見せるのがグラビアだとすれば垂らしきった姿を見せる勇気が女優には必要である。考えてみると1950年代に日本で起こったグラマー女優というものが1960年代にいったん途絶え1970年代かたせ梨乃で復活したとも言える。

しかし90年代以降まだ巨乳グラビアより本格的な女優として成功しそうな人は出ていないと言い切っても差し支えないであろう。イエローキャブからもそれはまだなしえていないのである。

 

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映画で裸身を見せたころすでに彼女は往年の爆乳ではなくかなり落ち着いた大きさに収まっている。地道な鍛錬により彼女は40歳を過ぎても美しいスタイルを保っているがそれはすでに20代のころから彼女は先を見据えたシェイプアップを開始していたからである。

大人の水着、プリティ・ピカピカや2000年になってシャンプーのCMで再び水着姿を披露してくれた彼女。そこにはもうあの頃の元祖爆乳の面影は見い出しにくいものの胸の豊かな女性が年齢を重ねると肥満系の巨乳となるか逆にまったく胸のボリュームを落としてしまうかのどちらかへ向かうことが当然と半ばあきらめる人が大多数であるなかで、できうる限りの理想の体型を保とうとする彼女は今でも豊乳グラビアモデルのパイオニアとして続く人たちに道を示し続けていると言えるだろう。

最後に最近の梨乃さんの画像を載せておこう。1999年出演の作品であるから梨乃さんは42才であるが役中で30才を演じても違和感を感じさせないものである。

 

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お知らせ)
イエローキャブ殿より画像使用停止を求められましたので、画像を削除いたしました。
ご了承ください。 2003年8月

事務所が彼女に気遣って公称した86cmEカップ。写真週刊誌が「この数字を信じた者はいない」と書くまでもなく大きな胸を愛する者たちにとってそれは何の意味も持たないクレジットであった。

潜在的に豊かな胸に憧れていた男性の多くが彼女の姿を一目見て胸というものがいかに自分にとって大きな意味があるものかに気づき、そしていつか彼女の名が多くの男性にとって忘れることができないものになっていく。

かとうれいこにイエローキャブの野田氏が出会ったころ氏は初めて彼が自ら手塩にかけたタレントである堀江しのぶの病と早すぎる死に気持ちが沈んでいる時期であった、しかしそのときの野田氏の経験が後に所属する女性を大切にする野田イズムの基礎となっていく、そんな中で彼にまかされた当時まだ星野麗子と名乗っていた驚くほど胸の豊かな女性。彼女にはよけいな説明など必要はない、その胸の圧倒的な魅力を見せればもうそれでよいのだ、と野田氏は確信したに違いない。

 

すでにアグネスラムの頃よりグラビアを主体とするタレントの最高の登竜門であったクラリオンの年間イメージガールを彼女を売り出す切り札に用いたことがグラビア界における彼女のステイタスを確実なものとした。

しかしかとうれいこの一番の特色は彼女自身がその最大の悩殺兵器である豊かな胸をひどく嫌っていたということであった。最初にリリースされたビデオジャケットに「私はこの胸が嫌い」と書いていることなども普通では考えられないようなことであろう。

水着でのインタビューのたびに必ず彼女が「水着は嫌です」と繰り返す姿もあまり普通ではないほどのかたくなさであったが確かに彼女の水着写真を見込んでいると他の水着アイドルの写真から伝わってくる「どう、この胸!」というアピールが無いことに気がつく。隠したいのに絶対に隠すことなどできようもない圧倒的な豊乳の魅力、このアンバランスな関係がかとうれいこの魅力ではなかったろうか

 

その後の彼女のビデオにおいても見ることができない全盛期の彼女の胸を激しく揺らして浜辺を走るシーン。おそらく本当のサイズはIカップあたりである彼女の若い日の迫力にはその後のイエローキャブの多くの後輩たちもしのぐことができないほどのものである。

 

80年代の後半はAVビデオの世界から大きな胸の女性の輩出があいつぎアイドルビデオというものはそれらに押されてしまっている様相であったがその中にあってAVビデオに真っ向から対決できる見応えのあるアイドルビデオとして後世まで残るものとなった。

 

当時まだその後のようにイエローキャブ戦略とも呼べる独自のスタイルは確立されていなかったためかとうれいこの芸能界におけるステイタスもすぐには定まらなかった。

グラビアアイドルはいかに本人に魅力があっても何年もの間続けられるものではない、いずれは他の仕事にウェイトを移していかなくてはならない、しかも彼女自身は早く水着を辞めて音楽をやりたい、と願っている。けれどもグラビアにおけるトップアイドルというキャリアは音楽という分野ではほとんど役にたたない、そのことを野田氏はよくわかっていたのに違いない。

演技ができるかどうかはさておいてとにかく映画やドラマに出させることである。この作戦は成功であったともいえるし成功しなかったとも言えるだろう、確かに彼女は女優としてさしたる成果は出せなかったのかもしれないがしかしあまり露出しないことがかえってマニアの間では永遠に忘れることのない偶像、限られた世界で崇拝を受け続ける、そんな存在へとなっていったのである。

 

「女優かとうれいこ」は結局一時の企画で終わってしまったがわずかに残された作品の中では彼女のその時代にのみ出せ得るきらめきを感じることができる。珍しいノーブラ姿をも含めて。

 

93年に入ったころよりかとうれいこは数回のラスト水着宣言をした。

当時私たちは巨乳好き仲間の間で「まったく自分がなぜこんなに人気が出たのかわかってんのか」などと悪口を浴びせてしまったが後に考えてみればそのラスト宣言も彼女が常に語っていた水着はできれば早くやめたいというだけの希望を出版社が売り上げのため利用するためのコピーだったので彼女を責めるのは的はずれであったと思うようになった。

実際最後にしたいと彼女自身は希望を出したものの「もったいないです、あと1回だけお願いします」と熱心に説得されたのかもしれないのだし。本人が思い描く終わり方を回りは許さないこともあろう。

タレントは商品であり会社の売り上げ計画、システムの中に組み込まれている存在なのであるから。マスコミにとっては商品となる間は1枚でも2枚でもその写真を使いたい、本人の都合や希望などどうでもよい、ただそれだけのことだったのかもしれない。

 

グラビアを去った後バラエティー番組のゲストや音楽活動などでときおりかとうれいこの名を見かけることはあったもののごく地味で実質的にさしたる活動ではなかったようである。

イエローキャブの所属プロフィールにおいても彼女はすでにボディーサイズの表示はなくグラビアモデルとしての彼女の思い出もいつしか時の流れとともに風化してゆく。しかしグラビアとはそういうものでよいのかもしれない。ほんの数年を駆け抜けるからこそその記録は見る人たち自身の個人的思い出となるものなのであろう。

あの頃はあんなことがあったなあ、そんなふうに。でも今もあの頃もただ一つまったく変わっていないこと、月日が流れてようとも私たちは未だ永遠におっぱいに惹かれ続けている。

 

PS
2002年、かとうれいこさんはご結婚されました、これからもお幸せに。

 

世紀末を駆け抜けた豊乳天使-青木裕子の思い出

 

1995年の夏も暑かったな。

すでにかとうれいこはグラビアより退いており、雛形明子も細川ふみえも意外な速さでグラビアから離れつつあったためそれまでこの分野で絶大な影響力を誇っていたイエローキャブ旋風も一息ついた感があり、豊かな胸のグラビアシーンは再び混沌とした状況へとはいっていた。そのころ私はどのような写真を好んで見ていたか今になるとよく思い出せない。

それほどに95年の彼女の写真との出会いは私にとって大きな出来事であった。

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彼女の雑誌グラビアデビューであるヤングサンデーを私は見逃してまった。その後ほどなくしてある雑誌で彼女の写真を初めてみること
になるのだが最初の印象は「髪が黒くて多いなあ」ということであったうな気がする。しかしIカップというクレジットを見るまでもなく彼女の胸はいっしょに記事に出ている他の大きな胸の女性たちと比べても明らかにひと味違う堂々とした量感をたたえていた。

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すでに96年の夏が過ぎるころには胸の好きなマニアの間で彼女は誰一人として知らない者はないほど確固たる地位まで上り詰めていたのだが、世間一般での彼女の知名度は必ずしもそうではなかった。

このギャップこそが後の彼女の寂しい引退という終末へと進む最初の大きな要因となっていったと言える。もしイエローキャブが所属事務所であったならば95年の後半ないし96年の前半までに必ずや彼女が一般に名前を認知してもらうための有効な手段を講じることができたかもしれない。

それは例えば露出回数が多いメジャーな飲料等のCMを獲得することかもしれないし、バラエティー番組であるかもしれない。「写せ!」ではあまりにアンダーグラウンドすぎたしその中での使われ方も全く彼女の良さを引き出すことはできていなかったように思われる。ミルパワーのCMにしてもあまりに地味すぎていたし。

こうして彼女はグラビアにおいてこれほど絶大きな人気を誇りながらもついに一般にはあまり知られることのないアンバランスな状態のまま96年も暮れていった。

 

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彼女が他の豊乳グラビアアイドルと異なっていた点は横から見たときの厚みと安定感である。たいていの子はかなり巨乳であってもその姿勢によって必ず胸がなくなるポイントがいくつかある。そしてそのポイントがどれだけ少ないかで見た目の巨乳感が大きく変わってくるのであろう。

青木裕子はほとんどどの姿勢をとってもボリューム感が失われることが少ない、まさに「真の」巨乳であると言えよう。巨乳好きはその理屈を特に意識をしていなくてもどの姿勢は胸が強調されどの姿勢では胸がなくなるかを本能的につかむ習慣ができているものである。裕子さんはその姿勢に影響されることが少ない胸のために無理に胸を大きく見せるポーズをとる必要もなく、逆にほとんどの人で胸がなくなってしまうようなポーズをとることでその大きさを感じさせることができたのである。

こうして彼女は96年の声を聞くころには豊かな胸にあこがれる男性の心をつかみトップグラビアアイドルへの道を歩むのであるが、しかし、、

 

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97年は彼女にとって最後のチャンスであったかもしれない。グラビアにおけるブームはいかに素晴らしい子であっても必ず終わりがきてその後は地道に活動が続けられるものである。だから彼女も特に他に目立った仕事がなくともときどき雑誌でその姿を見せてくれるモデルとなってくれても全くファンとしては差し支えなかったのである。しかし彼女が当初から望んでいた音楽がやりたい、という希望に対して事務所は誤った方向性を打ち出してしまうことになった。

97年になるとしきりと彼女がCDデビューへ向けてプロジェクト準備中、というような但し書きが添えられるようになってしまう。しかしグラビアモデルと音楽などはまったくといって接点がないくらい別のものなのであり、グラビアにおける成功は音楽に何の役にたつものでもない。これは遠い昔のアグネスラムから実証されていることなのであるが。もちろん彼女が望むCDデビューはさせてあげればよい、しかしそれはあくまでさりげなく、なにげなく行われるべきであって大プロジェクトとするようなものではなかったのである。

だがいつのまにかそれは彼女がこの業界で存続するために頼るべき起死回生の計画のごとき様相を呈してきてしまった。そんなことをしなくとも彼女の魅力を引き出すようなビデオクリップでも写真集でもゆっくり作ればよいだけのことだったのに。

 

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彼女の顔立ちは知的であるしやや年齢も高く感じられるところがある。まだ少女らしさの残る明るくはじけた表情もよかったがしっとりとアンニュイなフォトもまた別の魅力があった。大人っぽいグラビアの素材となる素質は十分に持っていたと思われる。

 

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ただ一つでもよい、彼女のネームバリューが豊かな胸のグラビアを好む人たち以外へも浸透するための媒体となるCMの仕事にさえ抜擢されたら、しかしついにそれは起こらず夏は過ぎていった。それでも彼女はただひたすら雑誌グラビアに出続ける。グラビア上の彼女はだれもかなわないワンアンドオンリーの魅力があるがしかしタレントとしては全く実績が無いに等しい不安定な存在なのである。

何か一つでも彼女の存在を一般に浸透させるメジャーな媒体にめぐりあえれば、それは夏ならビール、発泡酒、清涼飲料、化粧品といったところであろうか、または彼女のホームグランドとして安心できるテレビ番組があれば。不安な気持ちがまるで投影されるがごとく彼女の表情に陰が見え始めたのはこのころであった。

 

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トイレの花子さんでの裕子さんはかなり地味な印象であったが慣れすぎた演技をする今の若いタレントの中にあってはその素朴な感じはよい感じであったように思われる。

 

1998年、全盛期とは比べるべくもないものの彼女はまだコンスタントに雑誌グラビアに登場し続けていた。しかしグラビアでのキャッチフレーズはかなり苦心の跡がみられる。新鋭グラビアモデルとして昇る太陽の勢いである時期とは異なり先の何か具体的な計画が無いと話題に苦慮してしまうしグラビアモデルとしてはすでに2年たてば新しさを売りにするわけにはいかない。

このころから彼女の表情が目に見えて暗いことがだれの目にもはっきりするくらいになってきていた。笑っていてもどこか疲れていて憂鬱そうな表情。初めてであったときのはじけるような目の輝き、トレードマークのアヒルさんの口ももう見られない。心の乱れを写真はしっかりと捉えてしまうのである。グラビアにおいては徐々にその添え書きもひねったものになってゆく、最初はただ水着で明るく笑っている
だけでよいが徐々に自分自身の特色というものを見つけていかなくてはならないのである。

しかし彼女の場合まだワイルドでいくのかシックにいくのかがはっきりしきれていないきらいがあるようだった。シックになっていくと服は水着ではなく透けたドレスなどになっていくしワイルドならば破れた服とか豹柄や迷彩色の水着、といったものになり両方をしばらく実験して試しているようだった。

私が思うには全身を写そうとすると彼女の場合やはり脚のたくましさが目立つのでワイルド系のほうが合うようなので、シックはもう少し年齢が高くなってからでもよいかな、と感じられたが。

 

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私が個人的に思い描いていた裕子さんの方向性は実はファッション雑誌であった。当然男性雑誌におけるグラビアとは異なるものとなっていくことは当然であるがバラエティ、女優そして歌手、という方向だけが道ではない、おそらく女性が女性雑誌においてこのような体型の女性を歓迎できる時代が目の前に来ていると思っていた。

JJなどに代表される活発タイプのモデルが全盛である中でこのような控え目ででしゃばりすぎずアウトドアにあってもどこか「静」の魅力を感じさせる彼女の雰囲気はきっと同性からも受け入れられるものではないかと思うのだが。

 

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98年が終わるころにはいよいよ事務所はCDデビューのみを頼みの綱としているようだったがおそらく現場サイドでは具体的目処をたてられない状態であったのだろう。 事務所はこれほど人気を得た彼女を再び地味な番組のマスコットガールなどで使うことをよしと考えなかったのかもしれないし、彼女自身も嫌がったのかもしれないが惜しむらくは地味でも彼女が安心してよりどころとできるようなホームのような番組に一つだけでも恵まれていたなら、ということであった。

ちょうどこのころ彼女よりもっと地味に登場した黒羽夏奈子さんなどが3年を経たくらいからかえって静かに人気が出てきたし後に時代の人となる小池栄子さんなども番組のマスコットガールとして地味な登場をしている。しかし彼女自身の魅力は2000年を過ぎた後もまったくひけをとるものではないものだったのだからあせることはなかったと思うのだ。

 

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裕子さんの最もフェバリットな写真は?と問われると非常に選ぶことが難しい、当初は私もありきたりに胸を大きく見せる写真を好んでいたのだが徐々に全体を見ることができるようになってきたようである。豊かな胸に限りない憧れを感じながらもそれだけではない、ということもどこかで常に感じ続けていられること、モデルとその豊乳の微妙な関係はいつまでも私の中に存在する永遠の課題なのである。

 

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グラビアアイドルというのは一瞬の花火のようであるが中には何年もの間年齢に応じた魅力を提供し続けられる極めて一握りの人たちもいる。そのような存在になることは確かに困難でまたなろうとしてなれるものではないのであろう。しかし一瞬の、でも一生思い出に残るような夢を提供する存在もまたなろうとしてなれるものではない。青木裕子もまたその意味で選ばれた存在であった。

 

作者注)
2002年の4月その後青木裕子さんは別の事務所に所属して復帰された。グラビアモデルとしてではなく、かつてのような人気を博することはないと思うがそれはそれでも良いであろう。何より本人に明るい笑顔が戻り服の下であってもそのかけがえのない豊乳が健康に息づいているのであれば。

思い出のバチェラーガール

 

日本版プレイボーイに続き日本版ペントハウスなど一般男性雑誌において次々と海外有名誌の日本版が創刊されていた70年代後半のころ、成人向けエロチック雑誌の世界でもアメリカをはじめとする売れ筋スキンマグと提携した雑誌の創刊の動きが活発になっていた。バチェラーもその中の一つである。

当初は総合的成人誌であったがその後まもなく他の競合誌との差別化を図り独自のアイデンティティを確立する必要性を感じてバチェラーが選んだものがBIG BOOB,BIG TIT、そう「巨大な乳房」そして隣接する分野と言えるプランパーや妊婦などのヌード情報であった。そしてその判断は果たして正解であったと言える。

バチェラーはそれ以後約20年にわたり巨乳マニアにとって最も定番な雑誌としてその名を知られることになったのである。

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80年ごろのバチェラー。巨乳特化路線を徐々に明確化していたころのグラビアである。この程度の大きさでもうれしそうに紹介しているところが2000年の今見ると微笑ましい。

そばかすだらけの胸の谷間、キメの粗い肌など日本人巨乳の良さを逆に再認識させられる感があるが外人巨乳好きが言うにはまたそのきたなさが魅力なのだそうだ。

 

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80年ごろまだラスメイヤーの映画は日本では極めて一部のマニアにしか知られていなかったようである。私も初期の作品は見たことがなく「スーパービクセン」くらいからしか知らないのであまり語る資格はないのであるが、このアンマリーはラスメイヤーがキトゥンと出会う前頃までの一番のお気に入り女優で当時としては飛び抜けた巨乳女優であったらしい。

 

私はバチェラーの巨乳専門化路線における最も大きなエポックメーキングの一つが初めてかのタイタニックティナを日本のマニアに紹介したことではないかと考えている。一般世間におけるセックスシンボルがマリリンモンローならばティナはさしずめマニアの世界における最大の偶像とも言える。彼女の正式な写真はすべてJohn Xavier氏の撮影によるものとされる。Xavier氏はカメラマンとして特に一流と言うわけではないのだろうがティナの専門カメラマンとして共にその名を知られることになった。

馬鹿の一つ覚えのように強いソフトフォーカスをかけることが妙な面白みを感じさせるがティナの盗撮されたものと思われる流出写真までわざと本物に似せるために同様のソフトフォーカス処理がされていてそれゆえティナの写真はベタな写真が当たり前のこのジャンルの写真の中で一種独特の雰囲気を持っている。

後になって公開されたティナを初めて撮影したときのモノクロ写真は全く違った雰囲気を持っており映画「コットンクラブ」の世界を彷彿とさせるようなレトロなムードである。しかしマニアにとってこれらの写真が貴重だったのは別の理由がある。彼女が本当に天然の超巨大乳房であったかを確かめるヒントを与えてくれたからである。人工乳特有のパンパンに張りつめた独特の形状の乳房に対して天然の乳房は皮膚も乳房と共に成長しているのでそのような無理な張りはなくまた必ずある程度以上の大きさになると乳房は形が保てず崩れた形となってくる。ティナは胸に脂肪がたまっていく病気であったためときどきそれを除去する手術をしないと一般の生活ができなかったと言われるがその病院通いが後に彼女が豊胸手術をするためだったと中傷される原因となってしまった。また有名になった後モデルとして仕事をしていくために顔の整形を行ったとも言われこれは明らかであろう。

しかしその元となる巨大な乳房はおそらく天然のものであることがこれらの初期写真から推測できるのである。話がいくぶんバチェラーの話題からそれてしまったがティナという巨乳マニア界における最大の謎とも言うべき素材をこのバチェラーがもたらしてくれたのである。

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ティナの正式な販売写真はザビエル氏の芸風によりきついソフトフォーカスがかかっているものばかりであるがこの写真は初めて氏がティナの家で写真を撮らせてもらったときのものでこのとき氏は普通のカメラが壊れていたために別のモノクロのポラロイドカメラしか持っていなかったため貴重な「普通の」写真となったものである。

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80年代バチェラーは一つの絶頂期を迎えたと言える。当時アメリカのポルノビデオに出演していた多くの人気女優やストリッパーが次々とグラビアに登場した。それらはいずれもマニアの間では懐かしい名前ばかりではないだろうか。

ペントハウス誌のグラビアからポルノ女優となったクリスティーンキャニオン、同じくそのころのビデオに多数出演していたこのミンデイィーラエなども常連さんであった。

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クリスティーンと同時期に多数のポルノビデオに出演して人気のあったミンディー、当時の感覚でも「痩せた」乳房がかえってエッチっぽさをかもしだしていた。

 

 

80年代には日本の巨乳AVモデルの紹介ページも目立ってくる、同時に風俗においても巨乳コンパニオンを専門にそろえる店が登場してくるようになった。吉原のDカップコレクション、あんみつ姫などはその代表でこれらの店の女の子の写真を見ることもバチェラー購読の楽しみであった。

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80年代のバチェラーではしばしばオールディーズ特集というようなタイトルで50年代、60年代のグラマーフォトの特集も行っていた。当時の編集スタッフのどなたがこのあたりを担当してたのか興味があるところであるが今の私が感じているのと同様にこの時代のグラマーモデルたちのおっぱいを含めてのレベルが非常に高いことをよく理解しておりそれらの写真は年月を越えて観賞できる素晴らしいものである。

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80年代の後半にはいると登場するモデルのかなりの割合がかなりうさんくさい乳房をしていることに気づくようになってくる。

「巨乳」とは自然のいたずらであり授かりものであると考えるのが当然と思っていた多くのマニアに対して大きければいかなる方法でもかまわないとする退廃的な考えを持つ勢力がしのびよってきていたのである。

フェイク巨乳、つまり豊胸手術を施した人工巨乳モデルが次第にバチェラーにも多く登場することになり、バチェラーはいやおうなしに巨乳についての雑誌ポリシーを問われることとなっていくのである。

 

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バスティダスティは人気があったようであるがこの胸はあきらかに人工であろう。90年代になるとこのような胸のモデルやストリッパーの写真を掲載せずには雑誌そのものが作れない時代となっていく。

 

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アメリカのポルノで活躍したオリエンタル巨乳といえば古くはチャイナリーを思い出す人も多いだろう。日本からはかの「しのざきさとみ」も渡米して数本の作品に出演した。このミンカは韓国人とのことであるがちょっとこの爆乳が天然であるかは疑わしいもののなかなか魅力的でバチェラーにも多く登場した。

 

90年代のバチェラーを見るとアメリカを中心とした人工乳の氾濫に対してバチェラーがとった編集方針の苦心が感じられる。もはやまったく掲載をしないわけにはいかないほど海外巨乳シーンは人工に席巻されていたしそれでよいとする読者層の数も無視し得ない。

しかし巨乳はあくまで天然の人材を発掘するところに意義があるという誇りを捨てては多くの読者に見離されてしまうだろう。バチェラーは人工巨乳のグラビアを掲載しつつも添える記事には賞賛の言葉を書かず天然巨乳モデルにその賛美を添えるというやりかたを保つことにしたようである。

しかしそんながんばりに答えるごとく特にイギリスやヨーロッパから素敵な天然巨大乳のモデルが現れてくれたことはバチェラーにも朗報であっただろう。それらの代表がリンジードーンマッケンジー、アンドレアイレーナフィッシャーなどである。

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イギリス(オランダ系とも聞いているが)のリンジー、ドイツのイレーナフィッシャーは徐々に人工巨乳が浸食しているシーンの中にあってバチェラーの救世主とも呼べる存在となった。

 

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人工乳が氾濫するアメリカにおいても天然の良さを売りとするモデルはまだ多く存在しており、特に多くの巨乳マニアはつまらない人工乳を見るくらいならば太っていようと顔がよくなくとも高齢だろうと妊娠していようとそんなものは気にしない、あるいはむしろそちらを好むという傾向も強かったためアメリカからはそのようなおばさん巨乳、プランパー巨乳、妊婦など巨乳マニア内のさらにサブグループのような素材が多く提供されていたようである。

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90年代半ばではかえってこのような外人における天然の乳房は新鮮な喜びすら感じさせてくれるようになった。写真のテレサは欧米人ではかえって珍しい脂肪型の日本人の胸に近いタイプでどことなく親近感が感じられる。

 

バチェラーは海外の雑誌の紹介をメイン記事としている雑誌であるので権利等の問題であまり多くのオリジナルグラビアを掲載できないという足かせは創刊以来かかえている問題であったが少しずつ雑誌としての信頼性を高めることにより掲載権を獲得しオリジナルグラビアの比率を増やしてきたことは評価できるだろう。

しかし近年はインターネット画像関連の雑誌、DVD紹介専門誌、和製の巨乳雑誌その他盗撮、投稿雑誌などに押されて再び雑誌としての生き残りの岐路に立たされているようである。私はずっとバチェラーを見続けてきて常に海外雑誌の紹介記事中に小さい写真で掲載されているバランス破りの超巨大乳がこの雑誌のメイングラビアをにぎわしてくれたらと願ってきていた。

他のメディアから得られない物、専門化こそが今の雑誌のキーワードではなかろうか。まだまだ絶対的な乳房の大きさでは日本女性は英米の女性にはおよばない、バチェラーにはなんとかそのような問答無用の超巨大乳写真の発掘と掲載を期待したいと思う。

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前 編

 

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とある日の小学校からの帰り道、淡い夕方の明るさの中、歩道の向こうから歩いてくる女性。

学生だったのか、主婦だったのかOLであったのか、それはもうわからない。その女性が赤い薄手のセーターを着ていたことだけが思い出せる、髪はパーマヘアであったような気がするが。胸の形がはっきりわかるほどの距離に近づいたとき、私は自分がその膨らみに視線が釘付けになっていたことにはっと気がついて突然照れくささと罪悪感にとらわれた。

それはつい先日雑木林の中に捨てられていた卑わいな雑誌の雨でよれたヌード写真の記憶が重なったせいであったのだろうか。ブラジャーの表面のごつごつがセーターの上に筋状の模様を浮かびあがらせ、それはゆっくりスローモーションのように私の目の前に近づいてそしてすぐに後ろ姿に変わった。

そのとき心に芽生えた疑問は今も続いている。何一つ変わってはいない、何も解決していないしそして何も謎は解けてはいないままである。どうしてそれが自分を引きつけるのか、、、

 

 

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1945年の敗戦の後、復興を開始しした日本でまず流行した風俗がストリップであったという。これはおそらく1950年ごろの写真であるがなかなかの豊乳ダンサーであることが見てとれる。しかしもちろんまだ私はこの世にはまだいない。

 

 

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1960年代の代表的な漫画の一つである「ハレンチ学園」その映画化においてヒロイン柳生十兵衛(こういう名前であるが女性です)に抜擢された児島みゆきさん。わずかな膨らみがやっと確認できるほどのかわいい胸なのに自分の中では彼女は不思議なくらい豊かなおっぱいの記憶を残している。豊乳というのは見る者が自ら作り出している幻想なのかもしれない。

 

私の中で60年代と70年代の間には深い溝が存在している。私がいくら自分の中の古い乳房記憶を呼び起こしてもそれはどうしても1970年の壁より前に遡ることができないのだ。これはきっとすごく古いと思って調べても確認するとやはりそれは70年代なのである。しかしこれは無理もないことでもある。

なぜなら週刊プレイボーイの創刊そのものが昭和41年(1966年)でしかもヌード写真を多く掲載するようになったのがちょうど1970年ごろ、平凡パンチは昭和39年が創刊であるがそのときは写真主体とは別の種類の雑誌であり、ヌード、水着、音楽に車、といった若い世代のカルチャー雑誌となったのはやはり1970ごろなのだ。

60年代の巨乳の多くは一般の人が普通の本屋ではほとんど目にすることのない成人向け雑誌の中の、しかもきっとその中でもほんの一部分でしか目に触れることはできず、それらは時代の流れと共に存在したことすら人々の記憶から葬り去られてしまったのだから。

 

 

小早川恭子

小早川恭子さん。ピンク映画の俳優さんでさえもこのころは一般雑誌ではこのように乳首を隠すことが普通であった。このくらいのかわいい膨らみでも「ボイン」のタイトルがつけられていたし私たちもたしかにそのように感じていたのである。

 

 

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1963年ごろから写真が流行となり私も小さい頃テレビで毎年数多くの新しいカメラのCMが放送されていたことをよく覚えている。「ヌード写真」の発展もこのころに同時に進んでいたようで後に私が平凡パンチや週刊プレイボーイで見ることになる秋山庄太郎、早田雄二、柿島隆など大御所が新鋭カメラマンとしてヌード写真雑誌で活躍した。これら写真雑誌はあくまで芸術指向でありエロ雑誌とは異なるものではあるが女性のヌード写真においてその乳房の存在が何より重要なポイントであったことは言うまでもないだろう。だから「巨乳」というよりはむしろ「美乳」の歴史をたどるのに良い美しいおっぱいがたくさん発掘できる。

 

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ハの字に開いた日本女性の典型の一つ。まだ体の横幅に比べて一回り小さいおっぱいであるがこのままの形でその後20年をかけてその大きさは成長していく。現在のAVで多く見られるこのハの字型爆乳の基礎はすでにこの頃に登場しているのである。

 

巨乳(ボイン)であることが初めて誉め言葉して使われたということがまさに60年代と70年代の境目付近であったのではなかろうか。 これは暴論であるかもしれないが江戸時代300年にわたり、あるいはそれ以前からかもしれないが果てしなく長く日本人を支配していた「鳩胸出尻は下品で醜い」とする女性への審美基準が明治以後百数十年を経て1970年のころまさに逆転が起こったのではないだろうか。

 

 

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私がいくぶん不思議に感じたのは1963年当時すでにかなりの頻度でボインという見出しが見られるようになっていることであった。私がそれまで思っていた大橋巨泉さんが初めてボインという単語を用いたという逸話よりそれは前の話になってしまう。だから実はこの語の創始者は大橋さんではなく他にいるのではなかろうか。しかし考えてみるとその後用いられるようになる巨乳という単語も誰が最初に用いたのかはなかなか謎である。

ボインというタイトルでもこのようにかわいいおっぱいというところがいかにもこの時期らしい。おそらく現在のカップ表示にあてはめたときCカップぐらいのところがボインと呼ばれるラインであったようである。そしてDカップ、というボインのベンチマークが登場するのはその数年後、78年にワコールがカップサイズ表示を開始した後のこととなる。

 

 

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前田美波里の資生堂ポスターでの登場は陰湿さの無い健康的なグラマラスボディーの美というものを時代を先取りして世に知らしめたとも言えるできごとであったろうか。1960年代にすでにこのようなプロポーションのモデルが現れていたことはまさに驚異的とも言える。しかしそのころ前田美波里さんの胸がことさら騒がれたという記憶はない。受け入れる男性の側にまだ胸だけを特別に扱うというフェティシズムの意識は少なかったのだろうか。アグネスラムブーム以降に現れていたらなおさらにトップグラビアアイドルとなれたのかもしれない。登場する時代が早すぎたのである。

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2000年の今見ると顔の化粧法の違いが大きいのでいったい何歳なのかの推測がつけにくいかもしれない。撮影当時左のクララマリさんは18歳右のこだま玲子さんは20歳ということである。日劇ミュージックホールと言うとむしろ1980年ごろ有名だったダンサーである松永てるほさんを思い出す方も多いかもしれないがさらにそれより遡ること10年以上前からこのように豊かな胸の人が所属していたことは当時の私は知るよしもなかった。日劇というのが何なのかも知らない歳であったのだから。

 

 

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もちろん比率は2000年ごろとは比べものにならないほど低かったと考えられるが60年代にもバスト(当然トップバストを指す)が100cmを越す豊かな胸女性は多く存在した、しかしそのことが特別商品にならなかったようでそのため雑誌に出る頻度も当然のことながら非常に少なかった。当時のブラジャーは機能的ではなくまた大きなサイズもほとんど販売されていなかったためこのような巨乳な女性はしかたなく妊婦用ブラを使うことも多かったのだそうである。

 

 

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ちょうど1970年ごろではなかったかと思うのだが「泣くなおっぱいちゃん」(あるいは泣くなボインちゃんの記憶違いかもしれないが)という歌で自分の胸写真をレコード会社でプロモーションで配って歩いたという歌手がいたのであるが何という名前だったのかどうしても思い出せずにいる。この吉成さんも歌手とのことであるがどんな歌を歌っていたのだろうか。

 

 

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私は2000年現在に見られる巨乳愛好の流れの元となるようなモデルやタレントが登場するようになるのが70年代の半ばごろからと考えているが、しかし初めてグラマーな体型の女優の人気が高まったのはそれよりさらに20年以上も前のまだ日本映画が隆盛であった50年代に遡る。

テレビドラマ俳優というものもまだ存在しない時代で必然的にそれは映画スクリーンから登場するのだが後に大女優となる京マチ子さんなどもグラマー肉体派女優としてデビューした一人であったというのは私には驚きであった。私の知っている巨乳の時代の夜明けよりさらに10年以上も前にすでにこのように豊満なおっぱいを見せていた日本女性が多数いたことは新鮮な驚きであった。

しかしさらに調べていくとわかるのだがこの和製グラマーの人気が60年代にはいるといったん表舞台から姿をひそめる。この原因はなかなか単純ではないのかもしれないが陳腐な分析をすれば価値観がダブル化、さらには多様化へ移っていたこととその後の歌謡アイドル人気の元となる「かわいい」女性を愛好する男性の指向が強まっていたということであろうか。

しかし60年代にも前田美波里さんやほかにも大柄でグラマーな女性の出現もしっかりと続いていたのであっていわば60年代の10年間は続く70年代に起こる巨乳ビッグバンへの準備時期であったのかもしれない。

 

 

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前田通子さんはスキャンダル(と言っていいのでしょうか?)で映画界を去ったためにその後のテレビ世代の人たちにはほとんどその名を知られることが無く終わった。 しかし1950年代から60年代にかけての和製グラマーブームの先がけとして多くの映画で活躍した、大型おっぱいを持つグラマー女優の先駆け的存在であった。

 

 

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50年代は短いながらも日本における映画の黄金期であり映画が娯楽の王様であった時代であったという(親にも聞きましたが)松竹、新東宝、そして日活などが競って女優を売りだした時代である。新東宝の前田さんに対抗し日活が擁していたグラマー女優の代表がこの筑波久子さん。彼女はその後外国に渡りプロデューサーになり2000年の今でも現役で活動されているそうである。

他にも泉京子さん、万里昌代さん、毛利郁子さんなどの名があげられるがいずれ画像を入手したら追加掲載してみたいと思っています。

 

 

50年代のグラマー映画女優の全盛期が終わり60年代のテレビの時代を迎えると映画は次第にピンク、ポルノへと活路を見いださざるをえない状況となっていった。しかしまだ完全にポルノ映画というカテゴリーが確立されてはいず、通常の映画の一部分としての「成人指定映画」の中で次世代のグラマーアイドルが登場する。しかし彼女たちはその成人映画というカテゴリーで活躍したゆえに一般への知名度は低く限られた世界でのみ崇拝される存在となってしまった。おおきな胸が再び日のあたる表側の世界へ戻ってくるのは70年安保の終結以後のこととなる。

 

 

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history1でも登場していただいた三原葉子さん、おぼろげであっても私がその名を記憶しているほどであるからその人気は相当なものであったのだろう。前田通子もスクリーンから去り、50年代のグラマーブームの後、テレビの急激な発展と共にお茶の間で家族全員が受け入れ得る女性の人気が高まり、露骨に肉体美を表すものは次第に世の中の裏側の存在へとなっていく。さらにミニスカートの元祖ツイギーの来日などもあいまって時代は痩せたかわいいアイドルブームへと様変わりしていた。

しかしそんな時代背景の中でも「グラマーという語は三原葉子にしか使ってはいけない」とまで評された彼女はこの世界ではまさに特別な存在で現在でも三原葉子さんの業績を検証するページもいくつか存在する。新東宝の映画と言えば三原さん、と言われるほど多くの映画で活躍した彼女はこの時代にすでにこの素晴らしいプロポーション、2000年の今見てもこの胸は絶品である。浅学な私の賛美などは不必要であろう、とにかくじっくりこの素晴らしい胸を見こんでみてください。

注)「三原葉子の部屋」は彼女を最も深く研究している優れたページだと思います。もし三原葉子さんに興味を持たれたらこちらを是非ごらんになることをお勧めします。

 

 

おっぱいの面より1960年代をうまくひとまとめで説明することはかなり困難に思われるがそれは当然のことでメディアの種類が多様化し女性の望む女性の姿、男性が望む女性の姿なども年齢層などにより多様化していく時代だからである。ほとんど映画のみからグラマー女性が登場していた50年代と異なりテレビ番組、製品ポスター、雑誌グラビアなど様々なメディアからいろいろな形で新しいアイドルが登場
することになるからである。

60年代も半ばにさしかかり映画もかの有名な「007シリーズ」の頃になると私の記憶にもおぼろげとはいえかなり明確なおっぱいの形が見えてくるようになる。父親が会社の帰りに読みながら持って帰ってきた新聞の中で見たものが日本女性で初のボンドガールとなった浜美枝さんの姿である。まさに痩せているけどボイン、スレンダー巨乳の元祖と位置付けられよう。しかし実は私は初めてこの映画を見たときストーリーの半ば過ぎまでずっともう一人の女性、若林映子さんのほうをボンドガールであると勘違いをしていた。

浜さんは映画中でほとんど白い素朴なビキニ姿であるが若林さんのほうがファッショナブルでしかも稟とした姿はその後の日本のオフィスで活発に活躍する優秀なキャリア女性の姿を先取りしていたように思われる。映画ではわずかにあまり胸がわからないようにビキニ姿を見せるがその胸も実は浜さんをも上回る見事なものであったように思われるのだ。

 

 

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日本の自動車テクノロジーの急激な進歩を代表していたトヨタ2000GTを映画の中でかっこよく操っていた若林さん、後のテレビの人気番組プレイガールに見られるセクシーでかつ強くアクティブな女性たちのイメージの原点になっているのではないかと私は推測している。ボンドガールは浜美枝さんだったので体をあまり出さなかったものの実はその胸は脱ぐと浜さん以上に豊かだったのではないだろうか。

 

 

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浜美枝さんが着ていたまるで下着のような素朴で純白のビキニはかえって後に機能、デザインとも進化したビキニ以上に原始的なセクシーさをかもしだしていた。ボンドガールと言いつつもダイナマイトバディを誇示するというものではなく逆に日本女性の華奢で控えめに盛り上がった胸の隆起、線の細やかなライン魅力のほうを感じさせてくれていた。

 

 

 

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60年代当時はまだ「読者モデル」などというものは存在しなかったがプロモデルとしてそれだけの仕事をしている人たちとは別に一時期だけヌードモデルとして登場する人たちも多くいたようである。佐々木礼子さんもそのような人だったのだろうか、今となってはよくわからないのだがこの写真のころ19歳と書かれていたと思うので2000年を過ぎた今は50歳くらいでしょうか。

ご本人もしご覧になっていたら連絡してくださるとうれしいです。30年を経た今見てもあなたのおっぱいは素敵ですよ。

 

 

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60年代の半ば前このような脱色茶髪の女性はおそらく街でも非常に目立った、というか特別な職業の人と見られてしまったのだろう。しかし2000年のコギャルと髪もメークも著しく類似していて今になって見るとむしろ違和感が無いところが不思議である。体に合っていないビキニもかえってエッチ感が出ていていいですね。

 

 

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バチェラーなどの外国ポルノ紹介雑誌が登場する以前はこれらを専門に紹介する雑誌というのは無かったように思えるのだがどうなのだろう。スクリーンが別冊でポルノを扱うようになったのも70年ごろからであったと記憶している(間違っていたらすみません)

そんなわけで60年代の洋ものポルノに現れる巨乳さんをわずかだが載せてみよう。そのころは洋物ポルノの無修正のものを「ブルーフィルム」と呼んで密かに隠れて映写会などが行われていたそうだがもちろん子供だったのでそれ以上のことはわからないのですが。

 

 

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そうだ、青山ミチさんだ。そうなんだ。毎日この特集のためいろいろと記憶をめぐらせていた私にとって最高の、おそらくは「再会」をしたに違いない胸が青山ミチさんである。

意識的にその名がはっきり記憶されるのは彼女が歌をヒットさせていたときのことではなく、悲しいかなその後覚醒剤であったかで彼女が逮捕されたほうの雑誌宣伝記事であった。しかし彼女の写真を見た私の脳の古い記憶野で眠っていたDNAが突然蘇り私に語りかけた。「私はかつて必ずこの胸に出会い、そしてこの胸にあこがれたことがあるのだ」と。

 

 

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当時100cmという数字は特別な響きがあった。しかもこの痩せた体での100cmである。またもちろんそのころはわからなかったことであるがこの頃のビキニはその後進化したビキニと異なり胸の形を造ったり保ったりさせる、増してや寄せたり上げたりなどする機能など皆無のただの布だったのだ。しかしそれでこのお椀型に保たれたおっぱいは非現実的とも言える魅力であった。

 

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MY巨乳史特集5b

後 編

 

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私が性に関する物心がつきはじめたころ、すでに日活ロマンポルノが日本のポルノ映画の代名詞的存在なっていたのでそれ以前の成人映画界の状況というものをわかっていない。しかし非常に不思議に思えるは70年代の日活ロマンポルノでは巨乳なアイドル女優さんが非常に少ない、ということである。

70年代完全にグラビアモデル、CMモデルのほうが巨乳文化をリードしていたのである。日活ロマンポルノは80年以降単発的に藤尚美さんなどの巨乳さんがロマンポルノに加わるものの70年代にアイドルとなった女優はいずれもどちらかといえば小柄で華奢でグラマーというよりプリティーという感じである。

60年代末までに池さんをはじめとするポルノ映画における日本女性のパーツの大型化は起こっていたにもかかわらずそれがそのままつき進まないところがまた時代の不思議な動きというものだろうか。再びポルノグラフィーが巨乳をリードするようになるのは80年代半ば過ぎからのアダルトビデオにおける巨乳ジャンルの確立を待つことになる。

 

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MY巨乳史1のオープニングとなる池さんは私にとっては「巨乳菩薩」とも言える永遠の偶像的存在であるが彼女の社会文化史上の位置とはどのようなものかを少し外側より見てみよう。

彼女が登場し人気を博していった時期はまさに69年から71年でそれまでカルチャーとはみなされていず世間の裏側に隠されてきた成人映画がプレイボーイや平凡パンチなどの若者雑誌の興隆に伴い表舞台に開放されていった時期である、つまり70年代の扉を開ける立て役者の一人として「女性のおっぱい」の魅力を確認させる偉業をなしとげた歴史に残るおっぱいであったと言えよう。

実は私が最もよく印象に残っている池さんの雑誌記事は普通の週刊誌(週刊新潮か読売あたりであったように思えるが)で漫画家の加藤一郎さんと対談したもので加藤さんの肩に腰かけている池さんのまさに「国産ロケット第1号」のようなおっぱいにすっかり心がとらわれてしまった、そして数十年を経てこのようなページを作成する原動力ともなっているのである。

 

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なぜこれほどまでに彼女のおっぱいはいとおしいのであろうか。当時でも大きさだけで見ればいくらも彼女以上のモデルや女優は存在したのであろうが自らのフェチを気づかせてくれた池さんの胸を超える記憶は存在しない。そして今自分は逆に自分の娘と言って差し支えない年齢の巨乳さんたちを愛でながらもどこかでこの30年以上前の面影を探し続けているのである。

 

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60年代以前のポルノ映画ではまだフェラチオというものは一般的ではなかったようである。私は小学校のころ雑木林に捨てられていた成人雑誌をよく読んでいたのだがそれによればフェラチオも一種の「フェチ」的偏愛行為と捉えられていたようで外国ポルノの中で現れるフェラチオシーンをかなり日本ではまだ行われていない珍しい行為としてなまめかしく描写していた。

ましてパイズリなどというものは日本のポルノで現れるのはかなり後、アダルトビデオの時代になってからのことではなかったろうか。しかしけっして60年代以前よりそれができ得ないような平らな胸の人ばかりだったわけではなく写真の津村さんのようにもみがいのある豊かな胸の人はいくらもいたようであるのだが。

 

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「エロ雑誌」などという呼称はいくぶん差別的なようにも感じられるがあえて私はこの呼び名を敬称としてえたい。つまり一つの文化的遺産としてエロ雑誌は位置付けられる。

最初のエロ雑誌はおそらく50年代登場したと考えられるが60年代が終わり70年代に入るころにいったん衰退する。しかしその後エロ雑誌「ビニール本」(ビニ本)として新時代を築き90年代にはいるとコンビニで気軽に購入できる写真雑誌とビデオ専門店などで販売するより細分化されたマニア向けのものと2極化していくこととなる。

60年代の中盤から後半のエロ雑誌は今見るとチープさの中にも芸術性とでも言うものが感じられる。胸に関しては確かに平均的にはまだほとんどのモデルはAカップ、Bカップなのだが中には充分見事な巨乳さんたちも見つけることができる。

名前さえもクレジットされていない当時のエロ雑誌の巨乳モデルさんたち。時代は「週刊プレイボーイ」「平凡パンチ」など日の当たる「健全エロス」の時代に移りつつあったがその裏で埋もれていった人たちに今スポットを当てよう。

 

「エロ雑誌」などという呼称はいくぶん差別的なようにも感じられるがあえて私はこの呼び名を敬称として考えたい。つまり一つの文化的遺産としてエロ雑誌は位置付けられる。

最初のエロ雑誌はおそらく50年代に登場したと考えられるが60年代が終わり70年代に入るころにいったん衰退する。しかしその後エロ雑誌は「ビニール本」(ビニ本)として新時代を築き90年代にはいるとコンビニで気軽に購入できる写真雑誌とビデオ専門店などで販売するより細分化されたマニア向けのものと2極化していくこととなる。

60年代の中盤から後半のエロ雑誌は今見るとチープさの中にも芸術性とでも言うものが感じられる。胸に関しては確かに平均的にはまだほとんどのモデルはAカップ、Bカップなのだが中には充分見事な巨乳さんたちも見つけることができる。

名前さえもクレジットされていない当時のエロ雑誌の巨乳モデルさんたち。時代は「週刊プレイボーイ」「平凡パンチ」など日の当たる「健全エロス」の時代に移りつつあったがその裏で埋もれていった人たちに今スポットを当てよう。

 

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この方の名前はわからない。柔らかそうな脂肪100%というタイプのおっぱいであるがこのタイプがその後も数十年続く日本女性型の典型的な巨乳と言える。固めで形状の崩れない乳腺型が多く見られるようになるまでまだあと20年近い歳月がかかるのである。

 

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上から順に中山やよい、岸優子、水野あけみさん。クレジットの信憑性は確かめるべくもないがいずれも素人モデルとのことである。コケティッシュに突き出した乳首が色気を醸し出しているいい写真であると思います。

 

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この不思議かつ微笑ましい情景設定も60年代前半の芸術フォトの流れを汲んでいるからであろうか。雑誌の種類はいかなものであろうとカメラマンはよい仕事をしようと努力していたのであろう。

 

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当時のエロ雑誌の難点と言えばやはりまだ胸指向がなかった点であろうか。たしかに胸の大きいことを賞賛はしているのだがその写真アングルは完全に股、ないしヒップ優先であったのでポーズが一律になってしまっているところは残念である。胸優先のフォトが登場するのは70年代も半ばごろになってからではないだろうか。

 

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60年代の雑誌ではこのようなカラー写真とモノクロ写真が混在することが当たり前であった。栄えあるカラーに選ばれたモデルたちの美しいおっぱいはさすがに40年近くたった今でも十分鑑賞するに足るクオリティーを持っている。

左が太田ゆき子さん、右は岡京子さん。

 

1969年代の末から1970年代初頭という時代を思い出すとまず私が思い浮かべるのが「プレイガール」「キーハンター」といったテレビ番組である。1970年代に入ると集英社、平凡社など大手出版社が女性雑誌においてもNONNO、ananというその後定番となる新たなブランドを発刊していくがこの頃から女性が考える理想的体型と男性が求めるそれとの間のギャップが広がっていたようである。

男性が求めるものに女性が合わせていた時代は遠く過ぎさり「アクティブであること」が女性が求める女性の姿となり男性の側がそれに合わせていく傾向が生じる。スポーティーでアクティブであることと巨乳は残念ながら物理的にバッティングしてしまう。そのため健康的な乳房を開放して見せてもその大きさについては女性の側がリミッターを作動させて活動に邪魔にならない範囲に抑えるようになるのである。

女性側自らが巨乳であることを欲するようになるのは1990年代半ばごろから、乳房の質そのものが変化し、巨乳であることが体にあまり負担にならないようになってからであると考えられる。70年代日本女性がひたすらアクティブになっていく中で巨乳好きの男性が求める安心、やすらぎといったものを100%提供してくれたのが日本人ではなく外人であるアグネスラムであったことは皮肉な現象であったとも言えよう。

 

 

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私もまだ小さかったころ他の子たちといっしょに「リンダ困まっちゃうなー」と教室で大声で歌いながら走り回ったことがあった、その数年の後60年代が終わろうとしていたころにいきなり「噂を信じちゃいけないよ」と色気爆発路線でブラウン管に戻ってきた彼女は思春期に入っていた私たちの世代を充分餌食にするほどの豊乳を覗かせていた。

しかしその歌の強烈なイメージと美貌、スリットのパンタロンから見える美脚のほうにもっぱら世間の話題は偏っておりあまり彼女の胸が語られたことはなかったようである。70年代を目前にしてすでに受ける女性の質は変貌しようとしていたのでリンダさんの「色気」はここでもまた一時代前のレトロなものと受けとられていたのである。

 

 

今回私は私の中の巨乳追憶の根元を探るべく過去への小さな旅の試みを行ったわけだがわずかこれだけでも非常に面白い時代の推移を実感することができた。

まだ私が卵だった1950年代に予想していた以上に戦後日本で初めてのグラマー人気が映画の世界から起こっていたこと、ところが1960年代のテレビ文化の急速な成長と映画の衰退に伴いいったんそれが中断されたこと、そして70年代になり学生運動終焉のちにまた新たなスタイルで日本の巨乳礼賛の時代が始まったことなどなど、記憶の中で断片的に現れる豊かなおっぱいたちがやっとつながりを持って見えてきた感がある。

これからはさらにこの50年代の日本での第1次巨乳ムーブメントとも言える頃の映画を見て研究していきたと思っています。

 

 

最後に1970年代のグラビアの歴史を語る上で避けては通れない有名な写真を掲載しておこう。この写真を掲載してよいものかどうか私は豊乳inMY LIFEの制作を始めたときからたっぷり1年迷い続けた。これを載せてしまうことは田舎のマイナーな美術館がいきなりモナリザの複製を展示してしまうに等しい行為と言えるからである。

安保闘争、ウッドストック、神田川、ウーマンリブ、、、あまりに多くの1970年代初頭の典型的若者の心象風景がこの写真1枚の中にすべてつまっているのである。

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最後に

本研究はまったく私自身のおっぱいへの視点からのみ50年代、60年代を探ったものなので映画史などに関する認識は誤っていることは多分にあり得ると思います。このあたりは詳しい方からはご指摘を受けるかもしれませんがご了承ください。

もし50年代、60年代の巨乳についてさらにわたくしの知らないことをご教授くださる方がいらっしゃったら非常にうれしく存じます。また50年代、60年代で私が引用しなかった人で巨乳さんがいらっしゃったら教えていただけますとうれしいです。

 

 

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19世紀の西洋絵画にはすでに胸の下からウエストをきつく締め付けて乳房を高く突き出す上流階級女性の姿を多く見ることができる。古代のヨーロッパにおいて花開いた女性美礼賛の文化は中世になるといったん押さえつけられるが再び近世の帝政時代になって現在の洋服や下着の原型となる衣服が登場することとあいまって乳房の美しさを強調するものへと発達したのである。同様に近世には庶民を描いた絵にも作業着を着た豊満で胸の大きな女性の姿が多く現れる。

おそらく日本人が乳房を見せるもの、鑑賞するものと認識するようになったのが女性にも洋服が定着する太平洋戦争敗戦の後からであることを思えばその歴史の長さはあまりに違いすぎる。とは言うものの多くの科学技術や政治、社会制度を明治以降一気に取り入れ自分たちのものとすることができた日本人は実際の年月の長さの差から比較すれば驚くほどの速さでこの美観を自分たちの感覚としたと言えるのかもしれない。

1950年代日本でもおそらく歴史上初めて巨乳のブームが起こったがその動きの発信地であるアメリカ、ヨーロッパでのグラマーピンナップガールたちこそが現在の様々なジャンルにおける巨乳崇拝の源流と言える。今回この50年代から60年代にかけての乳房グラビアをいくつか眺めてみることにした。

 

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乳房は美しいものである、これは理屈ではない、私たちの細胞のDNAがそのように感じるよう設計されているとしか説明のしようがないものである。しかし乳房は狭義の生殖器ではないしまして大きさと生殖能力は別である。それでも乳房はモンシロチョウを誘因するキャベツ畠のごとき力を持っており私たちはその引力に抗うことはできない、だからこそ不思議な謎なのである。

第二次世界大戦が終わり大規模な戦争の脅威がいったん遠のくと人々は性文化を享受するようになる、かつての絵画に代わる新しい芸術手法として「写真」の時代が始まった。劇場、映画、そして本当のセックスというように性そのものを表現したり実写するのではなく、静止した被写体の一瞬を提供する写真が見る者のイマジネーションを刺激して見る者は能動的に美を感じとる。

写真というものの存在意義は21世紀が始まった今においてもまだ絶大である。私たちは40年以上の歳月を経たモノクロームの乳房からでもそのやわらかさ、しなやかさ、体温までをも受けとることができるのである。

 

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50’sの豊乳グラビアモデルとして私がまず出会ったのがマリーデベロークスである。1954年に16歳の若さでセミヌードでメンズマガジンのグラビアに登場したマリーは後にハリウッドで多くの映画に出演した女優であるがイギリス人でありブリティッシュ豊乳グラビアアイドルの先駆け的存在と言える。

まだ体に比してかわいらしいおっぱいであるがこのおっぱいのフォルムは後の80年代90年代に登場する圧倒的迫力を誇るブリティッシュ巨乳モデルたちへとと確かに繋がっているものである。この写真はとくに腕や脚、腰の肉つきなども含めて気に入ったものです。

 

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ジューンウィルキンソンはバストモデルという尺度で言えば50年代末から60年代初頭にけてはマリリンモンローも全く及ばないヒロインであったかもしれない。当時はアメリカでもまだカップサイズを表記する慣例はできていなかったが42inchというトップ数値が男性をときめかせたことであろう。この上乳の棚をコミカルに誇る構図も彼女の胸への絶大な自信がかがえる。

 

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アメリカにおいてPLAYBOYが男性雑誌の一大ブランドとなる以前はModern manやAdamといった雑誌で豊かな胸と脚線美を誇らしげに見せる女性たちを見ることができる。

これらの雑誌のグラビアページを切り取ってベッドサイドや机の前に画鋲で貼る、あるいは噛んでいたガムで写真を壁に貼り付ける、ということが独身男性の間で流行し、このことによりこのようなモデルたちを「pin-up girl」と呼ぶようになった。この頃の写真ではこのような斜め後ろ姿というものが多く見られるがこれは胸のみならず脚、お尻をも含めて見せようという意図のため最も適したアングルだからであろうか。このような角度で写したときにも十分に存在感のある高さがあって美しい三角形を描く胸のフォルムが求められていたようである。

 

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女性美に関して最初に成熟した国民といえばどこの国であろうか、と思いをめぐらせてまず思いつくのがやはりフランスやイタリアであろう。ブリジットバルドー、ソフィアローレン、ラクウェルウェルチなどに関して私などがあらためて解説することなど何一つないのでとにかくゆっくりその胸を眺めるにとどめよう。

彼女たちはもちろん「巨乳タレント」でも「巨乳ピンナップガール」でもなく純粋なスクリーン女優である、しかし女性たちが自ら理想的体型はこれだ、と口にすることができるような場にその胸を現したということにおいても歴史に残る人たちであったと考えられる。BBが女優として高く評価されるようになるのは60年代になってからであるがおっぱい史においてはなんと言っても50年代末の作品「可愛い悪魔」が適当ではないだろうかと感じている、時を同じくして敗戦後10数年がたちようやく娯楽を楽しむ余裕の出てきた日本においても初めてのグラマーガールブームが起こっておりBBの名は日本でも広く知られることとなり「バスト90cm」というのがグラマーの指標として語られるようになったのである。

ソフィアローレンはむしろ日本ではスクーターのラッタッタのCMに出た人、と覚えている方も多いかと(多くないか?)思われるがこのような大女優が日本のCMに出演することになったことでずいぶんそれまで遠く離れていたハリウッドなるものがいきなり身近になったと感じられたものである。このあと登場するアニタエクバーグも大物女優となったがまだ普通の映画でグラマー女性がそのまま素直にその体を誇示することが受け入れられるという点においてはまだおおらかな時代であったのかもしれない。後にポルノが一般映画からはっきり分化していくにつれ普通の映画からは体を誇るという女優がかえって出にくくなってしまうのである。

 

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垂れ下がった巨大な釣り鐘乳房をそのままにしておく写真が好まれるようになるのは70年代くらいからで50sから60sにかけてはひたすら地面と平行にできるかぎり前へ突きだした胸が好まれていたようである。バストの高さこそがグラマーのエンブレムであったのだ。 乳房のボリュームはまだその後の時代に比べると少ない人が多く、押しつぶしたり脱いだときはさほどではなくなるようだが着衣におけるこのシルエットは以後グラマー女性のシンボルとしてアニメのベティーちゃんに始まって日本の峰不二子に至るまで受け継がれいくのである。

ここでまたイギリス出身の巨乳ピンナップガール代表としてサブリナを掲載したが彼女のサイズはかのジェーンマンスフィールドと全く同等であったが彼女はそのプロフィールにおいて1/2inchだけジェーンより大きい数字を記載し、このためジェーンがひどく悔しがったというような逸話も残されている。

 

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バージニアベルはEarly timesのグラマーを語るときには必ず登場する有名なダンサーである。ラスメイヤーが彼女を発見したことも有名になったきっかけであろうと思われるがその短い活動時期が過ぎた後も何年も彼女のグラビアはグラマーピンナップの歴史には必ず登場するまさに伝説の女性である。

「Ding Dong Bell」と愛称で呼ばれた彼女は48inchというとびぬけた数値のバストサイズがクレジットされており彼女をフィーチャーしたピンアップ雑誌はたちまち売り切れてしまったとも言われ当時の人気がうかがえる。

 

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チェリーナイトは私が本特集をまとめるにあたり私が特に気に入った巨乳モデルの一人である。説明が難しいのだがいろいろな部分に見られる後の時代ならば修正を施されてしまうような普通さが気に入った。このころは「水着グラビア」というものはまだ欧米でも一般的ではなかったようで着衣であるか脱いでいるかのどちらかであることが多いのだがほんわかした雰囲気と豊かなおっぱいがよくなじんでおり私も気に入っています。

 

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キャンディーモリソンは50年代の末から60年代にかけて人気のあったグラマーモデルであるがたぬき系の愛らしい顔は日本人にも親しみやすいものではないだろうか。何よりそのおっぱいの豊饒感はまるで大きな卵を二つ実らせているようで素晴らしい。

60年代はPLAYBOY誌が巨乳モデルの発掘で最も強力なメディアとなるがキャンディーもまたヒューヘフナーに見いだされて有名になった一人である。アメリカ人男性もマザコン傾向はかなり強いと言われるがキャンディーのたわわなおっぱいはきっとそのような男性の心を捉えたことであろう。こう書いている私も数十年の歳月を飛び越えて彼女のおっぱいには魅了されました。

 

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テリーヒギンズも50年代の忘れてはならないグラマーピンナップガールである。元はダンサーのほうが本業であったようだがその豊満で柔らかなおっぱいにより人気を博した。彼女もまた顔も含めて親しみやすい雰囲気を持つ女性であるがピンナップガールとしてのグラビア数はさほど多くないようである。何より自分の本職はダンサーであると自覚していたとも言われている。

 

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ポーラページはアメリカにおけるバージニアベルとよく対比されて語られることが多いイギリスの伝説的巨乳ダンサーである。彼女はTwo Guns Paulaという愛称で呼ばれその着衣姿は胸に大きな銃を2丁入れているようだ、と形容された。

44inch DDカップという今ならばまさに「ロケット」と称される見事なおっぱいである。彼女はその素晴らしい胸でトップピンナップガールへと昇りつめたが最初はトラックの運転手をしていたとのことでどこかガテン的な逞しい雰囲気はそこからくるものかもしれない。

 

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ビスチェタイプの下着は外人グラマーフォトにおける定番衣装であるが日本ではなぜかアイドルビオオなどでこのような衣装は用いられない。ウエストが細い人でないとかえって逆効果になってしまうからなのだろうか。ベティーブロスマーも50年代の人気ピンアップガールであるがいわば今風の言い方をすれば「くびれ系」ということになるだろう。スレンダーなボディーに柔らかそうなおっぱいが魅力的である。

モノクロ写真でもそのおっぱいの柔らかさ、しなやかさが伝わってくるような実にいい写真ではないでしょうか。

 

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エルビスの初期のロックンロールが似合いそうないかにもアメリカンガールという風貌のジャッキーミラーはピンナップガールというよりは人気ダンサーと言ったほうがよい。当時のストリップダンスはBurlesque Danceと称することが多いが私たちがイメージするよりもその地位は高く日の当たる存在であったらしい。このBurlesque Dancerから人気モデルへというパターンが当時は一般的であったようだ。

ジョイランシングはモデルとは言えず女優、しかもテレビで主に活躍する「お茶の間タレント」的存在であったらしいがこの体を見ればフォトグラフ界がほっておくわけもない。60年代に入って彼女の人気が衰えた後三流の映画に出演したりストリップの仕事もしていたと言われるがこのような運命の変遷もまた後の多くのタレントが歩んだ道と同じであろうか。

 

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乳頭にこのようなかわいいバタフライを着けた写真はこの当時のストリップダンサー写真でよく見られるものである。しかし西洋人の場合これは乳頭を「隠す」という意味合いで用いてはいないのではないだろうか。昔アメリカで私もこのようなものをつけて踊るダンスを数回見たことがあるが乳頭を充分披露した後にまた羽根やらベルやらをつけて遊んでみせるというのがアメリカの男性の趣向にあっているようで、私はあまりぴんとこないのですが。

 

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グラビアモデルから俳優やその他のタレントへ、という道順は今でこそ日本の芸能界においても当たり前のようにとられている常道であるがメグマイルスもそのような経緯で有名になっていった人の一人である。しかしながら当時も女優なら演技力、歌手なら歌唱力が必要であったからどうしても「体」先行でのしあがってきたタレントには評論家などもきつくあたっておりかのマリリンモンローも「演技などと言えるようなレベルにすらない肉布団女優」などと酷評されていたのである。

メグはスキャンダルもなんとか乗り越えて60年代に何本かの映画にも出演しているが私たちにしてみればそのように無理にがんばらなくともその美しい胸を充分披露してくれれば満足なのではあるが。

 

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イヴメイヤーはこの特集の中にはいるとややこぶりな乳であるが彼女はかのラスメイヤーの妻であり、かつメイヤーの初期作品に出演した50年代巨乳を語る上で忘れてはならない一人である

 

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フェリーニ監督の甘い生活でのアニタのスチール写真はあまりに有名であるが乳首が見える写真のほうを掲載してみた。アニタエクバーグは1950年ミススウェーデンに選ばれたことからその芸能生活を開始したがフェリーニ作品への出演でやがて伝説的女優へと向かっていく。

まだ50年代はグラマーモデルであることと映画女優であることが渾然一体であって当たり前の時代であった。それが後にいったん女優とモデルは分離した存在となり、そしてさらに後の80年代にまたその境界はなくなっていくのである。

 

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50年代というのは男性が思い描く理想的女性の体型と女性が思い描くそれが珍しく一致した短い時期であったのかもしれない。この後再び巨乳女性が男性向けマニア雑誌の世界のものとなってからは女性が語る自分たちの理想とおっぱい病の男性の理想はどんどんかけ離れていくようになるのである。

 

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1960年代はPLAYBOYがグラビアを牽引した時代と言ってよい、映画においてはラスメイヤーが巨乳というものを最大限にフォーカスした独特のカルトな世界を築きつつあり写真においてはハリソンマークスがグラマーフォトというものの存在を世間に強く認識させていた。

そんな動きの中で一般の雑誌とはややかけ離れた世界でより乳房にのみ特化したマニア向けのグラビアが作り出される動きがあった。pre-Page-3という後のPage-3の前身的なものが登場するのもこのころである。おっぱい特化はその後ScorelandやGentといったマニア専門の世界へと進むようになる。

pre-Page-3の初期に登場したイギリスの人気モデルであるロジーナベルなどを見るとあえてトータルな魅力を排することでなおさら胸へのこだわりを強く打ち出そうとしていることが感じられる。最後にヒューヘフナーがある日歯医者へ行ったとき見つけて入れ込みスカウトしたというジェーンラッセルを掲載してこのミニツアーを終了しよう。

60年代はPLAYBOY、PENTOHOUSEといった一般向けグラビア誌の隆盛とPage-3などよりマニア向けのメディアが登場してくることで巨乳モデル輩出の数はいっきに激増しその趣向もいろいろ多様化してゆくがこのあたりの時代についてはまたいずれ考察してみたいと思っています。

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