巨乳を考える日々の讒言 その18

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容姿を見せる職業としての音楽家と豊乳

絵画や彫刻、文筆、音楽ならば作詞作曲などと異なり演奏や歌唱の芸術の一番の特性は自分を見せることが伴うということであり歌や演奏の魅力とあるときは同等以上にその容姿が大きな力を持つことがある。音楽という聴覚の芸術であっても「見る」ということも重要な要素である場合女性は自分の容姿をも武器とすることなど至極当然のことであり、またそれにつられてファンになることだって別にその人の音楽を軽んじていることにはならない。

男性であってももしあなたが容姿がよく(今風に言えばイケメンで)それだけで女の子たちの人気をかなり集められるような存在であったとしよう。そしてもし歌でデビューしたとき常にインタビューでその容姿のことばかりを言われ歌については1割ほども質問してくれない状態がいつまでも続いたらどうであろうか、「かっこよくていいですよねー 女の子にも人気があって」「ほーんとかっこい、うらやましいですよー」 しかしいずれその言葉は誉め言葉には感じなくなるに違いない。歌についても質問してくれよ、そんなにおれの歌は話題にする価値すらないのかよ、、と。 

そしてある日インターネットで自分の名前をもとにいろいろ読んでいたら露骨に「***は歌は別にどーってことないけど顔がかっこいいからね」と一般の人たちが書き込んでいるのも目にしてしまう。極端な例を示してみたがおそらく有名になるためには自分の豊かな胸を武器として使った女性ミュージシャンにしても有名になってからも胸のことばかりを聞かれ胸のことばかりで雑誌にとりあげられる状態が続くとおそらくそれをことさら嫌がるようになりいっそ隠してしまうか胸そのものを小さくしてしまえ、ということになるのも容易に理解できる。

ミュージシャンではなく自らの容姿をもってデビューしてくるグラビアアイドルでさえしばらくすると自分の豊かな胸のことばかりを話題にされることに嫌気がさして転身してしまうことが茶飯事なのである。自分の容姿の魅力はそれはぞれでありがたい授かり物としておいてそのこととは別に自分の音楽そのものを冷静に捉えられればどうということもないのかもしれないがなかなかそれができない時期もあるものなのだろう。

私が初めて歌手の胸で意識したのはショッキングブルーのマリスカヴェレスからであろうか。インディアンの血を引くというマリスカ、まだ外国のロックバンドを放映するテレビ番組などない時代、ほんの一瞬何かの番組で彼女が悲しき鉄道員を歌っているのを見たときのグラマラスな姿は今でも思い出すことができる。

セクシーなレコードジャケットで話題だったママライオンのリンケアリーがメイヤー作品にも出ていたことは私は後になって知ったのであるがさもありなんという感じである。特段のヒット曲はなかったのだがそれでも彼女は後々までモデルと音楽活動の両方を息長く続けている。おっぱいと音楽の両立が成り立った一例であろう。

カーリーサイモンはウーマンリブ運動の象徴とも言えるノーブラ写真のジャケットがあまりに有名であるがノーブラはむしろ女性らしさの放棄であったはずなのにそのわずか数年後彼女が女性らしさ全開のジャケットのアルバムを出したのはなんとも皮肉なことである。

本格的歌手になりたかった本人の意思とはうらはらにセクシー歌手としてデビューさせらたサンディー、しかしその後も彼女は息の長い音楽活動を行い現在に至っている、そしてそのすばらしい胸の曲線は昔を知るフェチからも息の長い崇拝を受けている。これも両立が成り立った典型的例と言えるだろうか。

黒人ならではのおおらかな体の発露、チャカのノーブラで歌う姿は過剰な色気も感じさせず見る側も照れくさくない。日本人でこんな姿で歌ったらおそらくそのことばかりが話題になってしまうに違いないが黒人が巨乳、というのはもうあたりまえに感じられることで陰湿な欲情を起こさせないものなのかもしれない。

モンローと並びアメリカで「セックスシンボル」と呼ばれた数少ない女性の一人、ドリーパートン。後にクローン羊が造られたときその名をドリーとした由来は「乳腺細胞」を使用したので乳の象徴として彼女の名がつけられたのであるという逸話も生まれた。 70年代後半、オリビアニュートンジョン(こちらはまたすごい微乳でしたね)の歌でヒットしたジョリーンを発表したころの胸は素晴らしかったですね。しかしアメリカのスキンマグには爆乳の女性がいくらも登場しながら彼女が巨乳クイーンとして崇拝されたのは今も昔も「脱ぐ仕事ではない」普通の女性の胸が男性の憧憬をそそるという変わらぬ法則があるのでしょう。

マライアには今更なんの説明も必要無いであろう。しかし私がこの人を面白いと感じるのは彼女は人気を得るために体を露出したのではなくむしろその逆で歌によって充分すぎるほどの評価と名声を得てから後に体のほうをこれでもかとばかりアピールしていることである。このあたり日本人に理解しにくい心理というのもあるのかもしれない。

事情がありますので名前を書かないでおきます。私はライブやコンサートを見るにあたりその音楽そのものを楽しむことができない人間ではないのですがしかしもしこのようなものを見せてくださっているときそれをも上回るほどに音楽の方に集中させられるものに出会うことは残念ながらとても少ないものです。そしてそれであっても別に罪悪感を抱く必要などないのだとも考えています。本人はもちろん音楽を味わってもらいたいと思っているのは当たり前であろうがこのような楽しみも総合してライブというものは行われ、そのようなファンだってファンに変わりはないのだと考えるからです。

日本における巨乳好き増加の根元

アフリカ、ミクロネシアなどの女性は巨乳があたりまえなのはまだそこでは多産多子が普通であることも関係あるのかもしれない。日本も私たちが知らないずっと昔もしかしたら今よりも女性は巨乳であったのかもしれない。「愛好する」という心理はその対象の数が適度に少ない、ということが重要である。みんながあたりまえにそうだったらわざわざマニアになる必要もないわけである。「恥ずかしい」という心理も同じで適度に少ない比率のグループに入ってしまうと恥ずかしいという気持ちが強くなる。

例えばほとんど全員が禿げるのなら禿げはメジャーであり恥ずかしくもなんともなくなるであろう。巨乳が日本男性に異常に愛好される下には巨乳女性の数の比率が適度に少ないということが大きく作用しておりさらにその比率が少ないまま保たれるかもしれない要因として少子化、生殖減少が元にあるのではないだろうか。

将来を予想することは何についても難しいことであるが日本女性の巨乳化は確かに進んでおり現在巨乳と呼ばれる程度のアイドルなどは将来みなそのような形容はなされなくなるであろうとはしばしば書いてきたところであるがさりとて日本女性がアメリカ並に巨乳が当たり前にになるかと言えばそうでもないと思われる。特に肥満に対して極端に反応する日本女性の場合将来もぽちゃ爆乳な女性の比率は適度に少ないまま推移し、そのような女性は私たちのようなマニアからの崇拝対象であり続けるのではなかろうか。

齢同一性障害

別にこれは若いのに老けて見える、とかお歳なのに若く見えるという意味ではなくて(そういう意味にしてもいいのかもしれませんが)常に自分の年齢と精神が一致していないためにその歳なりの行動がとれず失敗をかさねあとで後悔することである。

今思うとあのころああしておけばこうしておけばと悔やまれることばかりなのでがそのころには心がそれをわかるほど成熟していなかった。常に実年齢の後追いばかりを続ける精神年齢の治らない不一致状態。きっと今できる巨乳の楽しみ方は別にあるに違いないのだが今の私の心はそれがわからないのです。

覚醒の頃

初恋を意識するよりも前から思い出に残る異性というものはいるものである。私にもそういう人がいる、今でもその子の姿はまるでつい先日まで見ていた人のように思い出すことができるし声までも思い浮かべることができる。そんなに心に焼き付いているのならそれが初恋なんじゃないのか?と言われそうであるがそれは絶対「否」であることもまた自信を持って断言できるのである。

病弱で運動もできなかった私はそのとき校庭のトラックの外で体育座りをしてリレーランナーに選ばれた子たちが特別に練習している姿を眺めていた。その中にその子はいた、クラスの女子では一番か二番の長身、長くしかし細すぎないしっかりした脚と腕。運動神経抜群で家がわりと近所だったのだが小さいころから歩道で縄跳びの二重跳びをいつまでも連続でやっているのを見かけたし、鬼ごっこなどやろうにもその子の脚の速さはすごく私など一瞬でつかまってしまった。

小学校になり学年が上がるにつれその脚の速さは学校内でも特に際だってきて、こうしてリレーのアンカーとして走っている。隣のコースを1学年上の体の大きいやはりクラスで一番脚の速い男子が走っていたがその子にさえもまったく遅れをとっていなかった。

1年後くらいであったろうか、その子は地区のスポーツ大会にも勝ち抜いてより広い県の大会へと進み私たちは電車に乗って公営の競技場まで応援に出かけた。広い競技場の遠くのほうから見たその子の姿は小さかった。やはり知らない土地にはもっと体の大きな女の子たちがいてその中に挟まれて真ん中あたりのコースでスタートを待つその子の姿が初めて華奢で弱々しく、そしてとても女性らしく見えたのである。

結果はよく覚えていない。しかし3位までに入ることはできなかったのでは、その記憶があいまいなことには一つの理由があった。仕事をやりおえて戻ってくるその子の体操着の下にかすかな濃い色のもの、そう乳輪がわかったのである。その子はまだブラをつけていなかったのだろうか。乳輪は自分たち男の子にもあるものなのになぜその子の乳輪は特別に突起して色も自分たちより濃く目立つのだろうか、、、その後その子の記憶が私の中で突然消えてしまう。その胸の先端の小さい、しかし私たちより明らかに異なるものである突起を見たときから私はきっとそのことの存在を意識したに違いないのだが。

雑感2000~2003

私がほぼこのページを開始したころからの3年は奇しくも私が今まで生きてきたいつの時代にも増して「巨乳」がブームとなった。だからこの3年はよりどりみどりのハッピーな時代であったかと問われればもうそれは絶対に「否」、人間そんな単純なものではない。それどころかわずか数名の人に思い入れを抱き続けることができた時代に比べてなんとも煩わしく、しかもケーキが食べたいなと思っていたら粗雑な造りのケーキをプール1杯分目の前に出されているような気持ちになることもしばしばであった。だがそんな環境でもしばらくすると自分の気持ちが奥底から反応するようなおっぱいを見分けることができるようになっておそらく何年たっても思い出に残るだろうなと思えるものを浮かび上がらせることもできるようになってくる、この3年ほどで一番印象に残る胸を今年の最後の記事として書いておきたいと思います。

青木りんさんは特に印象深い子の一人である。たまたま彼女が東京女事務所に登場してすぐにこのページで取り上げて応援したところほどなく彼女ご自身がまんが喫茶から掲示板に書き込みをしてくださって、その後モノクロではあるが週刊プレイボーイに載ったときにもまたそのうれしさがびんびん伝わってくる書き込みをしてくれた。そんなこともあって遠い存在であるアイドルではあるもののいくぶんの現実的近さを感じてそのことが思い入れを強くしてくれた。

その後彼女に関するいくらかのエピソードを知ったこともあり大きな事務所の強力なバックアップなしで身一つでグラビアやDVDで奮闘する姿になおさらいとおしさが増して密かに応援を続けているところである。これからももしこのページを長く続けていくことができたら何年か後にりんさんをMY巨乳史の特集としてアップすることもできるのではと思っている。

りんちゃんDVD 2003年お気に入りの2枚です構成はもちろん普通のアイドルビデオと同じですがりんちゃんの撮影の合間のオフショットが特に気にいっています。

1st DVD burst
2nd DVD Blue Beans

このページで画像掲示板を始めて間もないころに一度だけ投稿してくださったReiさんの彼女さん。しかしこの方はすでにマニアの世界では絶大な支持、いや支持などというものではないもう「崇拝」される域に達している存在、いわば乳房の女神様と言えよう。残念ながらご本人の意向で画像を掲載できないのは残念だがこの方に出会えたことだけでもこのページを始めてよかったと思うことができるくらいの衝撃であった。

巨乳好きの方々はVoluptuous XLというアメリカの雑誌をご存知と思うがこの雑誌はたとえれば巨乳界における大リーグのようなものである。野球の世界ではすでに多くの日本人選手が大リーグで活躍しているが巨乳界の大リーグで日本女性が欧米の巨大乳房の女性と同レベルで並ぶことはまだなかなかできるものではない、しかしこのReiさんの彼女さんならば必ずVoluptuous XL で欧米の巨大乳女性に混じってもひけをとるものではない。そう、日本にもこのレベルの女性はいるのだと知らしめてくれた方である。とはいえ実生活においては苦労が絶えないとのことでブラ購入にはじまり何をするにも邪魔になること、そして外にでると常にマニアの視線にさらされる、そして何より乳房そのものが重量で中の筋が切れてしまうという体そのものへの負担が何よりも辛いことであろう。

橘ちあきさんもまたこの3年あまりの間で最も印象深かった方の一人である。巨乳札により一気に話題が沸騰したもののたちまちみんなの口からその名が出なくなってしまったことがまた私には不思議でならなかった。もちろん巨乳札以降特にグラビアもビデオも行うこともなくなったので常に新しい素材だけを追っている人にとってはほんの一瞬の出来事にすぎなかったのかもしれないがそもそもおっぱいとはそういうものなのか?という疑問を私に起こさせてくれたのである。

少なくとも橘さんのおっぱいはほんのいっときのちょっとした話題に終わらせられるような代物ではない一級品であり、誰しもが認めるここ3年で最も素晴らしい胸の女性と讃えられる松金さんとも並び語られる価値があるものと考えている。私は今でもときどき彼女の数少ないグラビアを見かえすしビデオも見かえすのだが橘さんはおそらく数十年かけて発達した日本女性の典型的な脂肪型乳房での巨乳の限界近い、いわば完成型とも言えるのではないかと見ている。ここより次の段階に進むためには根本的に質から変えていくしかない、すなわち欧米型の高密度で乳腺が発達した乳房である。すでにこのタイプの女性も何人かは出てきているがこのタイプでより巨大化していくのはこれからまた数年の後であろう。

くだらない考察、そして自分にとっての本当の努力

勉強が嫌いな人から見ると熱心に勉強している人はすごく努力しているように思えるだろうがその本人にとってみればその勉強が好きなので別にそれは苦でもないし努力でもなかったりするものである。そしてその人がどうしてもできないのは逆上がりであったり跳び箱であったりしてそういうことができる人をすごいなあと思って見ていたりするのである。おっぱいについてああでもないこうでもないと妄想したり考えたりすることは私には息をすることと同じで容易という以上に行っていないと死んでしまうような営みである。だからこのようなことで努力していると言われると恥じ入ってしまう気持ちになるのであるが、私がどうしてもできない私にとっての本当の意味の努力というものをときにはズバっと指摘してくださる人が現れてもいいのにな、と思うこともある。そう、すぐ数メートル前にいる豊かな胸の持ち主に「つきあってください」、そこまででなくても「メールアドレス教えてください」1000の机上の考察よりただ1度その隆起に触れることのほうがきっとおっぱいと自分の真実に近づくのに違いないのだし、、、

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2004年はよい年でありますように。そして皆様のご健勝をお祈りいたします。

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