「タレント」か「アイドル」か(ある歴史的出来事に寄せて)
私はこのごろ「巨乳アイドル」や「巨乳タレント」という言葉がますます嫌いになってきておりできれば使わない方向でいきたいのだが「胸の豊かなアイドル」などという言い方をしていると長くてまどろっこしいし、所詮はオブラートに包んだ表現にしているだけじゃないか、とつっこまれそうでもあるししかたないので便宜上引き続き「巨乳」の語を使うことにする。
アイドルとタレントはもちろん接点も重複部分も多くあるものではあるがしかし別のものである。昨年世間を眺めているととみにそれを強く感じるようになった。ご存知YCという事務所は「芸能タレント事務所」であって「グラビアアイドル専門事務所」ではない。グラビアを行わせる事ももちろん業務の一部ではあるがあくまで最終目的はタレント(芸能人)としての成功であり、2003年はそのことがより明瞭になってきた分多くの「グラビア」愛好者たちがYCのタレントあるいはYCそのもに対して複雑な思いをいだくようになったようである。
前にも書いたことであるが「巨乳グラビア」というスペシフィックな需要に応えていくにはあまり大きい芸能事務所ではなく小回りがきく事務所のほうが向いているのでは、と考えたのはそのことであり、もちろんその事務所にしてみれば大変であろうが多様なニーズの中から「タレント活動など興味はない、ただただ巨乳なグラビアやビデオを見たいんです」というマニアックな、しかしけっしてマイノリテイーとも言えない人たちに対して「巨乳な芸能タレント」ではなく純粋に「巨乳アイドル」を提供していくことが可能なのではないかと考えられる。
さて話をこのごろのYCに戻すが「巨乳帝国」と呼ばれまた自らもそれを自負していたかもしれないYCであるが根本はるみさんを投入した以降は新たな巨乳グラビアアイドルの提供という面においては目立った動きがなくなってしまった、もちろん芸能事務所としての活動はますます活発になっているわけであるが。松金洋子さんへの強力な対抗馬として送り込まれた感のある根本さんであるがその結果は松金洋子さんという日本女性のスペックを完全に超えた世紀の逸材の価値をなおさらはっきり確認させられるようなこととなった。
しかしYCはそれででもタレントのみならず巨乳アイドルの分野でもまだまだトップの座を得たいという言ってみれば「欲張りな野望」があるのであろう、そこで昨年後半あたりから狙ってきた作戦が「松金洋子さんを孤高のトップにしないこと」というものであるようだ。若いアイドルをタレントとして地位をあげていくためにはすでに有名な中堅、大物の芸能人とできるだけいっしょの仕事に加えてもらってすこしづつ知名度を上げていくのがごく一般的な手段であると思われるがタレント活動としてはすでに上回っている根本さんをグラビアにおいてはあえてタレントとしての活動はさほど多くない松金さんといっしょに行う企画の仕事に加えて、つまりそこでは松金さんのほうが格上、ということをYC自ら認めることになるのだがそうしつつしかし松金さんが段突の女王でYCの人たちがよってたかってもかなわない、というような図式を崩すよう、つまり根本さんを松金さんと並ぶ「双璧」のようにイメージづけることで巨乳王国の面目を保つという口の悪い言い方をするならばちょっとあざとい作戦である。
これはかなり穿った見方も入っているかもしれないがさほど的はずれな見解ではなかろう。(また非常に好意的にとらえるならばYCが松金さんのすごさを素直に賞賛しエールを送っているとも言える)松金さんの側も知名度の高い根本さんとの仕事によりなお自分の知名度もあがるわけであるからこれは歓迎というところであろうか。
しかしながらコアな巨乳グラビアファンはこのようなことを理屈で考えたりはしなくとも感覚ですぐにわかってしまうものである。根本はるみさんも充分に素晴らしい巨乳グラビアアイドルであり私もそれになんら異論はさしはさまないし私自身根本さんのグラビアもよく見て愛好しているのだがしかし松金洋子さんという芸術的おっぱいには及ばない、それが事実である、そのことは根本さんのタレント活動にはなんら影響を与えないであろう、しかしながらただそれだけのことが巨乳フェチにとっては何にも増して大切なことである。だから巨乳グラビアアイドルにとって巨乳マニアファンというものは食いつきのよいうれしい存在でありながらもあまり金にならない、しかもタレントとしての活動にほとんど興味を示さずそれどころかかえってうれしく思わない者も多いというまったく始末の悪い連中なのであるかもしれない。
さて新春そうそう週刊プレイボーイ、聖ボイン学園の理事長采配で松金洋子さんと夏目理緒さんの対談企画が実現したようである。これは言うなれば豊乳王女と豊乳天使の会合とでも呼べるもので、おそらく今のほとんどの胸フェチアイドルマニアの感覚を正しく反映した最高の人選であるのみならず、おそらく70年代から延々と続く巨乳グラビア史上の歴史的な出来事であると考える。思えば小池栄子さんが開いた2000年代の巨乳グラビアの扉であるが多くの巨乳マニアの間では後々「21世紀初頭の最も素晴らしいおっぱいはやっぱり松金洋子さんと夏目理緒さんだったね」と語られることは疑いのないことでありその二人が奇しくもYCではなかったということもまたタレント(芸能人)とアイドル(偶像)という似ていながらも異なるものについて考えるための示唆を与えてくれるのである。
金網
湘南のある交差点は休日のトラフィックインフォメーションで名前の出ない日はないくらいの渋滞の名所である、もうずいぶんむかし昔の話になるが、そこから歩いてもいくらも遠くないところに住んでいる女性を友人が紹介をしてくれるという経験をしたことがあった。
彼女はその街の慢性的渋滞を避けるために毎日チャリかベスパに乗りすいすいと車の横をすりぬけて仕事に向かう、まさに典型的な湘南ロコガールであった。しかも家は適度に裕福でいかにも聡明かつ健康な容姿、今考えると人もうらやむような話である。しかしダイビングにウインドサーフィンにスキーを楽しむというユーミンの「サーフ&スノー」の世界からとび出てきたような女の子を私に紹介なんかして何が起こるというのか。その友人は中1以来の長いつきあいでそのくらいのことはわかりそうなもんだが、、、
自分がカラオケ演奏のバイトをするようになってからしばらくして、バンド関連の知り合いが駐車場代金が毎月かさむので自動車を手放したい、ということで、10年になるぼろ車ながらそれをただでもらうことができ、仕事のない日にはそれでけっこうあちこちに一人でドライブにでかけた。
湘南の方面へもときどき足をのばし逗子の海岸ぎわのデニーズあたりでぼんやりしていることがけっこう好きであった。小さい頃、父につれてきたもらった昔の逗子、まだ加山雄三の若大将さえ登場する前の静かな海の思い出も懐かしくてよくそこに行ったのである。
ちょうどこのデニーズがあるあたりからラマレドチャヤのテラスのあたりにかけての岩浜でよくウニをとったりして遊んだ。虚弱であった自分は海にもぐって泳ぐことなどはできず波打ち際でそうして一人で遊びながら、遠くの浜でワイルドに歓声をあげて海遊びをしている同年代の少年少女を自分とはかけ離れた世界の人達のように思って眺めていた。
さらに車を南に走らせ三浦海岸まで行くと海沿いの道にワゴン車を止めてそこで着替えて海に出ていくサーファーの男女たちがいる。中原中也であったかあるいは別の人だったか忘れてしまったのだが、肺病に冒されている自分が校庭で元気に運動をする女子学生の姿に限りない憧れを抱きつつ、絶対に同じ世界に入ることのできない自分を感じて独りきりの気分にひたっているという詩がある。
健康な女性、元気で丈夫で運動好きで活発な女性は自分にとってけっして同じ世界に入ることのできない憧れの存在だ。その躍動感のある腕に脚、日に焼けた胸元、無造作に後ろでまとめた髪、それでいてその指先は細く繊細に女性を主張している。自分はその場にいることもつらくなってしまうようないたたまれなさの波に洗われてその子たちが海へ去っていくのを見送る。そんな私の目の前に思いがけずそんな子をもってこられたのである。
春がもう終わろうとしているぽかぽか陽気の晴れた日、友人は自分の彼女を連れてきていて、その子はその友達の彼女と大学時代の同級生であった。友人の彼女は平らな胸をしていたがその子の胸はラフながらだらしなくはない薄手のカッターシャツの胸を高く持ち上げていてボタンの間にときおりできる三角の窓から生暖かい空気が漏れ出すのが感じられるようであった。 私はどうしようもない
いらだち、半ば腹立ちに近いような気分になり、時間を潰すことも次第に苦痛になっていった。そしてまるで関係のない職場でのグチやひどく悪びれた態度でその紹介してくれた友人に口汚く他人の悪口のような話ばかりをしてあまりその子としゃべることもしないで、というよりいっしょにいるのにほとんど無視をしているごとき相手からすればおそらく不快に満ちた態度でその日は終わった。その夜友人は電話をしてきてせっかくいいのではないかと思って紹介したのにいったいぜんたいあの態度はなんなんだ?嫌われよう嫌われようとしているとしか思えないし、たとえ彼女が好みの子ではなかったにせよその場は明るく盛り上げようとしてくれたっていいではないか、それが大人というものではないのか、と私を非難した。
ほんとうに悪かった。申し訳けないと思っている、でもそうじゃないんだよ、そうじゃ。
あの子では良すぎてそれは自分には拷問だったんだ。
私のようにもうなりふりかわまず弱さを表に現して逆にそれを利用しようとしているつもりの人間であっても仕事などにおいては知らず知らずのうちにその弱さを隠してがんばりとおしてしまうようなことがしばしばあるものだ。自分のキャラクターじゃないと思うので嫌なのではあるけど。
普段自分の弱さを隠して戦わなくてはいけない男をやさしく包んで心をやすらげてくれるような女性を「菩薩系」というのだそうだが、あまり安直にそのような菩薩系女性に癒されようとすることもまた自分を甘やかすのでよくないと考えているので、そう最低10年くらいは我慢すべきかと思っている(#そりゃ我慢しすぎか?)。
さて、もしかしたら私の最初の菩薩的偶像である池玲子様は今思うとこのような女性ではなかったのかもしれない。むしろ彼女が活躍した当時のポルノの世間からの扱いを考えれば彼女自信がとにかく戦い続ける日々であってもちろん業界で力のある男性と関係を持たなくてはならないことだって多々あったかもしれないし、だから弱い男性をなごましたり癒したりどころではなかったかもしれない、第一当時はそんな発想すらないのだし。
当然のことながら私達は自分が大好きなアイドルでも女優でもその人のことをほんとうにわかっているわけではなく、その写真、テレビや映画、ビデオでの話し方、話しの内容などの情報を脳で統合してその人の人となりを推測し、そこからイメージを膨らませて勝手に相手の人間像を作り出しているわけである。だがこのことは自分の身近の人に対しても実はほとんど変わらない。
特に親しくして深い話しをしている人のことならともかく、学校で職場でいいなあ、と思うがまだ声をかけられない女性、などに至ってはテレビでよく見るアイドル以上にその人のことは何もわかっていないことのほうが多いであろう。
世間などでしばしば口にされる「アイドルに夢中になっているうちは現実から逃避しており、生身の女性にきちんと恋愛しなくては社会性が育たない」というのは正論なのかもしれないがよけいなお世話であり、現実の片思いもアイドルへの片思いも本質は同じことなのなら苦しい片思いより楽しい片思いをする道を選んでもかまわないのではないか。
おっぱいへの執着というのはその点なかなか不便なものである。巨乳なアイドルへの思いだけ抱いているほうが心が平穏でいられると思っても身の回りにはその何十倍ものリアルさでその平穏をかき乱そうと攻撃してくるおっぱいというものがあり、それはまた交際願望とはまったく異なるものである。
生身の女性と人間対人間としてつきあえば偶像に恋をしているときとは比べ物にならないほどのいろいろなことを経験するししかもその大半は苦労ばかりであったりもするし、相手のことを考えなくてはならなくなるし、そんなこんなで様々なことを学ぶことができるのではあるが私にとっては「だからなんなのよ」と言いたいところである。
自分に社会性など身に付こうがつくまいが人間的にどう成長しようが相手を深く理解しようが愛そうがそんなことは自分のこの業深いフェチとは関係ない別の問題だ。なるほどそう考えていくとやはりおっぱいフェチは根底では巨乳な女性と1:1の男女としてつきあいたいなどと願っているわけではなくその憧れは恋とか愛とかとは別のもなのかもしれないという推測はますます確かさを増してくる。
とりあえず適当な概念化ができないので便宜上恋に似たような憧れとして扱っておくしかないのだが自分を含めてフェチに見られる対象へ果てしなく愛情を持っているようでその実思いやりのなさやエゴイスティックな面が後ろに隠れていることを思えばそれはむしろ強すぎる「自己優先愛」というほうが適当なものではないだろうか。
AVとグラビアは巨乳的にはどちらがハードルが高いんでしょうねえ
なんか長い題名(笑 しかし今回この「でしょうねえ」というのがポイントでして、もし「高いか」と書いてしまうとそれ相当の根拠などを示して論理的になんらかの結論を提示しないといけないもののそのような根拠など何もないのでまああたくし自身のちょっとした疑問を書いて見ようという程度のものです。
まず年齢に関してはAVのほうが許容できる範囲が広いでしょう。最近は三十路、四十路どころか五十路あたりまで出ている時代ですよね、そこまでいかなくとも友崎亜紀さんのような主婦キャラ巨乳女性も大歓迎されますから、その点グラビアデビューになると二十歳くらいでもけっこう遅い登場になってしまうような世界です。かつて活躍した女性が年輩になってからもグラビアをする、というのはあっても最初から高い年齢でグラビアデビューする、ということはほとんどなく、しかしこれはけっこう新しいアイデアじゃないかな、などとも思うんですが。 実際の求人需要となるとどうなんでしょうね、長くスターを維持する、ということになるとAVのほうが大変のような気もするし、しかしグラビアだってそう何年も人気を維持できるものではないし、どっこいどっこいなんでしょうか。
おそらくある程度以上のすごい胸をしていればAVのほうで必ずデビューできるチャンスはあると思われるんです。しかしそれが単体(ソロ)としてプロモーションして売り出してもらえるかどうかは他の要素もはいってきてしまってまずは企画物で何人かでる中の一人で扱われるか特別なマニア相手のもののみ作成している会社からだけ出すということになるのかもしれません。
とはいえそれはGからIくらいまでの話でもう問答無用のすごすぎの巨乳さん、ということなら器量はどうであっても必ずや単体で1本は出せるんではないでしょうか。(だれも出さなかったら私が出しますから)体型においてもグラビアよりずっと豊満が許容、あるいは積極的に特定ジャンルでは歓迎されるわけですし。
グラビアのほうがその点はるかに狭いジャンルなのだと言えるのでしょうね、、巨乳グラビアアイドルと言っても胸だけでは絶対なれそうにないですから器量や全体のスタイルも及第点以上であってしかも巨乳、というと限られてしまいこの点ではごく限られた子だけが成り得る非常に高いハードルなのかもしれないです。さて、では最後にいよいよ私たちにとっては最も大切なおっぱいそのものとなると、実はここを比較するのが一番難しくて解決がつかないところなんではないかなあ。グラビアでもいわゆる「限界露出」と呼ばれるものだと胸そのものの本当の姿がほとんど完全にわかるわけですが普通のビキニまでだとなんとも評価しきれないのですよね。
だから本当に胸に自信のあるアイドルさんだとわざとビキニでなくてもこんなに胸がきれいだよ、とわかるような衣装でのグラビアをしてくれるからそこで判断してよいのでしょう。その点AVは過酷ですね、もうまったく小道具なしでいきなり100%出しきって評価されるのですから。乳輪、乳頭、全体の形などすべてにおいて残酷なまでに天賦の差が顕わにされてしまいます。
だからこそAVでトップレベルの素晴らしい胸の人はグラビアの人よりも上に感じられてしまうことが多いのかもしれません。グラビアアイドルの場合にはついに最後までその乳輪、乳頭は謎のままで終わる人、仮にある程度年輩になってからヌードグラビアを出す人がいてもその人の若い頃のそれはやはり永遠の謎のままであるということがほとんどですから同じ巨乳フェチにとっての対象と言っても交わることのないジャンルであり続けるのでしょう。
フェチというエゴ
「体のことで人を差別したりしてはいけません」小学校では必ず道徳の時間などにそのように教わる。これは胸に限らず体の一部分に執着するフェティシズムと両立しえない事柄である。じゃあ言葉に出したりしなければ、あるいは言葉にするにしても自分が好きなほうを賞賛し、好まないものについては黙っていれば済むことか、ちょっとでも想像力を働かせてみれば長い人生の中で常に24時間心の中に強い歪みをかかえてそうそううまくやっていくのがどんなに難しいものか、わかるでしょう?
フェチは不平等、差別無しでは存在しないものである。顔の美しさに差があり、男性の陰茎の大きさにも差があり、背の高さに差があり、そして同じように乳房の大きさに差がある。フェチはそれらについて「私はこれしか認めることができない人間なんです」と差別扱いを宣言して生きているようなものなのだから、だからフェチから誉められるほうもこのフェチの冷酷さが感じられるゆえに心底喜べない気持ちになるものなのかもしれない。
本のご紹介
書評だなんておこがましいタイトルはつけられないです。
最初は「鏡の国のおっぱい」判田良輔さん撮影&著これは日本の女性のおっぱいですよ、と但し書きをつけられなくてもそれがわかるのはなぜなのでしょうね。でももしかしてアジアの国の女性のおっぱいの写真を見せられて日本人かな、と間違えることはきっとあるかもしれません。そういう厳密な境界線の話をしているわけではないんです。そんなことを言い出したら「さびしそうなおっぱい」「笑っているおっぱい」なんていう表現はすべて無意味になってしまいますからね。でもおっぱいの虜として生きていかなくてはならないわたしたちはきっと無意味の中にすべての価値を感じているのですから。
「ブラの本」「ブラ・バイブル」 青山まりさん
きっと胸フェチの男性であってもあまり女性にとってのブラについて考える人はさほど多くはないのかもしれません。 そんなことどうでもいいんだよ、ただエッチしたいだけなんだから、と。確かにそうかもしれません、でも裸の美しさとまた異なるブラ姿の美しさは胸フェチならだれでも知らず知らずのうちに感じているでしょう。もちろん男性のランジェリストの方々にとっても是非読んでいただくとよい本ですね。
女性の心は胸にあるのです。
ぽちゃ爆愛好の原点
ずいぶん古い映画のように思えるけど自分がリアルタイムで経験しているということはもう自分自身が古くなっているということなんでしょうね。
アマルコルドを見た頃の私は年上のお姉さんにあこがれる気持ちを一番よく実感できる時だったのでティタの淡いグラディスカへの思いにも同化できたがしかし何より一生続くインパクトを受けたのはやはりタバコ屋のお姉さんであった。もっともこのとき自分がその後ここまでぽちゃ爆乳フェチになるなどとは思ってもいなかったのであるが。
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