巨乳発達の歴史、そしてこれからを思う
一応私の中では97年の青木裕子、黒田美礼あたりの登場を一つの時代の境目としている。
70年代に中村京子さんが「Dカップ京子」として巨乳の一つのベンチマークとしてDカップを提示(ちなみに中村さんの名誉のため一言申し添えたいのですが当時の彼女は現在のブラ選定のときの正しい計測を行えばおそらくDではなくEはあったと思われます)して以来約20年の歳月を要したが巨乳の指標は「Iカップ」にまで成長した。
アンダーバストがまったく同じ数値である場合、DカップとIカップでは乳房の体積がどれくらい違うかということはどのように算出できるか私なりにいっしょうけんめい考えたのであるが(ワコールやトリンプの設計専門家の方いらっしゃったらどうぞ御教授ください)ほぼ2倍、つまり Dカップ二つ分がIカップの乳房に相当しそうである。
しかし一般に「ナイスバディ」と呼ばれる体型に対してつくことができる乳房の大きさはどうもこのあたりから限界が見え始めるように思われる。やはり日本においてもマニアが求めるとてつもなく大きな膨らみを得るためにはやはり乳房のつく表面積を果てしなく大きくしていかざるを得ない、すなわちマニアの多くはプランプな巨乳の方向へと向かってゆくように思われるのだ。これには異見も多いかもしれない。
もちろん藤原紀香さんのようにあくまでバランスのとれたナイスバディーが人気を博し続けるは当然のことであるがそれとはかけ離れたところでマニアたちによって森川まりこさんがあれほどまでに人気が出たことからも顔が一般的尺度での美人で体型もバランスがとれているということ以上にとにかく日常出会うことがまれな巨大な胸に価値を置く人も増えているのではと思うのです。
作り物廃絶を願う
とにかくシリコーン包埋手術による人工巨乳だけはほんとに麻薬と同じように撲滅したいものである。
しかしながらニーズがあるからこそそのようなものも蔓延するのであろうから世の中には人工でも大きいのがよい、という人も多いのであろう。しかし私にしてみれば悲しいことである。これは見る側だけでなく実際にそのような胸を持っている女性にとってもそうなのではなかろうか。
アメリカの人工巨大乳のモデルのビデオを見るとすぐ気づくのは胸を強くもみしだいたり顔を思い切り埋めるような場面がまず無い。これは当然で自然に大きくなった胸ではないために皮膚は本来のその人の胸の大きさに合っただけの分量しかない。そこを無理に大きくするわけだから皮膚はぱんぱんに張りつめるのは当然である。だから安全のためにも胸を強くもませるようなことはないし、またこれは自分が女性ではないのでわからないのだがそのような状態になった胸はあまり揉まれても感じなくなっているようにも思われる。
中身がつまっている胸そんなでない胸と人それぞれだからこそ探す楽しみも出てくるのではないだろうか。
自らの重量で横たわる乳房。この感じとても気に入っています。
なぜ同じカップサイズを標榜していながらこれほどばらつきがあるのか
マニアはクレジットされている数値よりとにかく自分の見た目を信じるという習慣は身についていることと思うがそれにしてもなぜ同じように「Fカップ」というように記載されていながら人によってこうまで違うのか。
このことは常に頭の隅から離れない疑問であろう。「測定方法がまちまちだから」とまあ一言でかたずけてしまうこともできるが仮に標準的な測定のための作業手順をもうけて同じように測定したとしてもそれがアンダーバストとトップバストという2つのファクターのみからカップサイズを定めるならば絶対に本当のカップサイズは求められないのであろう。
こういうことはおそらくワコール等の専門メーカーの人たちが十分に研究しているテーマであろう。理想的なことを言えばもう個人個人で画像解析をしてもらって10人10色で自分に合うブラを作ってもらうのが一番なのであろうがあながち今はまだコストなどのことから実現していないこのやりかたも近い将来現れてくる可能性はあると思う。
平均値について
2000年の今、毎夏ごとに歩いている女の子たちの胸が大きくなっていることは確かに感じられるのに、ある統計調査によれば今でも20歳の女性のバストの平均カップはBということである。
イメージ的にはもうDくらいになっているように思えるのであるがそれはやはり自分が大きい人にしか自然に反応しなくなってまっていることによる錯覚なのであろうか。あるいはブラのほうの矯正効果が発達し、またパットにより目測を誤らされることもあるのかもしれない。しかしやはり昨年15だった子は今年16来年17、となり毎年確実に平均体積は上がっているであろうということは絶対に錯覚ではないはずだ。平均はBでもそれより大きいサイズの売れゆきが年々に倍倍と増えているという話もあるのでこのあたりから推測すると分布曲線が下記のような変化をしているのではなかろうかと思えるのです。
いずれの年代においてもちょうど極大値のところがBカップであるがこのように年を追うごとに右側の大きいサイズのほうへ重心が移っているのであろうと考えている。
乳輪の好み
胸にこだわるマニアはかならずその乳輪にも独自の好みを持っているものであろう。
私自身はやはり大きな乳輪でしかもぷっくりと乳輪の麓のところから突出している、すなわちニプレスなどにより乳首を隠すことが不可能なタイプ、例としては下のfig1ような感じが好みなのでせっかく巨乳であってもfig2のようなものだとあまり反応できない。
小林ひとみさんが人気を博していたころも私は今ひとつ「お気に入り」に入れられなかったのも彼女の乳輪のためであった。私などはまったくナンパなどということができない陰に籠もったマニアであるが積極的に巨乳ちゃんをナンパしている人でも洋服の上からだと乳輪まではどうしても完全な予測は不可能であろうからホテルでそれを見る一瞬はまさにロト6をコインで削るときのような期待と不安に包まれるのではないだろうか。
見抜く力を養う
今度は廃絶はできない「作り物」についてのお話。街でちょうどCからDカップくらいに「見える」女性で垂れてもいず形がきちんと整い、しかし歩いてもまったく揺れず。そんな隙の無いスタイルの女性を見るとこれは?と疑うほうがよいことが多い。
下着メーカーの研究開発の成果である可能性が高いからである。脇の下などの贅肉を集めてカップの中に入れるというテクニックはもうきわめて当たり前であるがそれ以上にパットなどの位置や素材感が進歩して正直なところ服の上から本当に裸になったときのバストを正確に見極めるのは至難の業になっている。私の知り合いにもつきあう前に密かに期待をふくらませ、ついにめでたくホテルインして「やられたー2サイズくらい小さいかもー」という経験談はよく聞くところである。
たまにプチセブンなどの雑誌を見ると女の子のために「偽パイ」の作り方を解説している記事なども見かける。その写真でノーブラ状態とハイテクブラをつけた状態で比較写真が載っているのを見ると2サイズ(AをC)は見た目を変えることができるからたいしたものである。しかし本当に巨大な胸の人はむしろ小さく見せるよう苦心していながらもはや隠しようがない、というものであるからいちかばちかでDカップに賭けてみるかもう絶対に大きくて大きくてどうしようもない大物を待つかの選択ということになるだが知り合えないんだよねーそういう見事な方とは。
藤井彩子賛
先日敬愛する先輩方のページでNHK健康体操の三森早苗さんについてフィーチャーした記事を載せておられたところがあったがさすがに巨乳マニアは眼のつけどころがいいと感心して読んだところである。
私がこのごろ心惹かれる胸の持ち主が主にスポーツを担当されている藤井彩子アナウンサー。大きさはおそらくD+あるいはEに届くというくらいなのかもしれないがやはりぱっとその胸に視線が引き寄せられる、「存在が立っている」とでも言うのかな。隠さないといけない、でも隠せない、そんな好循環が生む魅力でしょうか。
番組の性質上Tシャツ姿などラフな格好で出ることもないがきっちりとしたジャケットが胸のあたりで左右に押し開かれる感じがなんともいいですね。はきはきした話し方が私のように陰にこもったマニアにとってとてつもなく「手の届かない無理目な」感じを与えコンプレックスをチクチクと針でつつかれるような気持ちになるのもいいのかもしれない。とまあごたくはこれくらいにして今回はかわいい藤井アナの大特集(笑)
下着カタログのあれこれ
昔はブラのカタログで写っている女性はほとんど例外なく微乳であり谷間はおろかわずかな膨らみさえも見せていないかった。しかしこれも時代の流れと共に変化してきて、特に80年代から普及した外人モデルを主に用いた通販カタログがEカップ以上のサイズを取りそろえるようになってからブラのカタログを見る楽しみも増してきた。
たまにけっこうマイナーなスーパーや通販のカタログで思いがけず立派な胸をされたモデルさんを見つけるとそのチラシが捨てがたくなったりするのはやっぱりあたくしが病気だからでしょうか。さらにここ数年通販がさらに一般的になってくると海外下着の購入なども行えるようになってきたがそのようなカタログではつまらないグラビアなどよりはるかになまめかしい妄想を抱くことができるような写真に出会えることがある。
リングの魂
まったくどこがリングの魂なんだかという感じだけど強い男も巨入が好きだったりするんですねえ。このとき森川まりこさんも出ていたんですよ。しかしちょっときわものというか色物扱いされていたのはかわいそうでした。わりと気に入った2人を今回は載せておきましょう。
まったくこいつはもー、、、、ウラヤマシイぞ
巨乳が好きで洋ピンをみたことがある人ならば必ずこのヒゲのヒスパニック系の男を見たことがあるに違いない。
巨乳大好き男優、ロンジェレミー。いったい何人の巨乳さんとエッチしたか数えきれないんじゃなかろうか。まったくこいつときたら巨乳女優とそうでない女優でエッチの態度がまるで違っていて巨乳さん相手だとほんとにうれしそうにエッチをする。
ちなみに日本のAVでものたりないのはどうも男優が生真面目できちんと仕事に徹しすぎているところではないかと思う。女優ごとに態度を変えるようなことはプロとしていけないこと、と考えてだれでも公平にきちんと演技するのだがかえってそれがリアルな感じをそこねているように思えるのだ。実際に憧れていた女の子とついにホテルに入って初めてエッチをするようなそんなリアルな感じを出してもらうには本当に好みの女性では入りこんでエッチをしてくれるほうがいいときもあるんではないだろうか。
ちょっと脱線したがそんなロンの最高のエッチと私が思っているのはBAD GIRLという作品の中程でロンがずっと目をつけていた自分の好きなタイプの女の子とゲームにかこつけてついにエッチをする場面でこのフィルムはもうほんとにすり切れるくらい見込んでしまっていて今回はアップには使いものにならなかった。
しのざきさとみが出演している作品でも出ていたのだがしのざきさんとのエッチは無かった。かわりにチャイナリーにフェラと手こきで出してもらったときの精液の多さと元気さにはもうあきれてしまった。アメリカのポルノ男優としてはそんなにコックは巨大ではないほうなのだが形や堅さがいいのか女優が彼とのエッチでは本気で気持ちよさそうにしている。80年代後半、巨乳大好きの羨望の的だった男である。
画像掲載に関する考え方について
考えてみれば街を歩く女性をそのまま写すのも盗撮と言えるのかどうなのか微妙なところなのであるがここ数年このようなことが特に問題になり駅などに「肖像権をなめていませんか」などという広告などまで出るようになってきたのはひとえにインターネットやPCによる画像処理技術の普及によるものである。
コラージュなどを行なわず街で写した女性の写真をそのままホームページに掲載した場合にもやはり掲載された被写体本人が不快に感じるのならばそれは肖像権というような問題とは別に当事者間ですみやかに解決するのが一番であると思うのだがどうも何かしらひとくくりにして解決したがる傾向は残念である。
たとえば山の好きな人が登山中出会った人の写真をその思い出文と供に掲載したとしよう、こんな場合にはまずその掲載された人によほどの特殊事情が無い限りは問題になることも無いのだが(それでも究めて良心的な人ならば掲載の承諾を得てから行うのではあろうと思いますが)、ふられた女性の写真を掲載して「この女は淫乱だ」とか注釈をつけて掲載したとしよう、この例はあまり適切ではないかもしれない、画像使用以前に名誉毀損、誹謗中傷などのほうの問題でアウトに決まっているからである。
ということで私が自身の問題として最も適当と思われる例をあげるなら私がこのページに街で見かけた女性の写真を掲載するとしよう、もちろん添える文は誹謗どころか「賛美」以外にはない。しかしその女性はやはり不快に感じる可能性は非常に高くそれはこのページが胸フェチのページだからに他ならない。
自分の胸が大きいことに自信よりコンプレックスのほうを抱く女性の数は多く従って私のページに掲載されただけでもう嫌だということになるわけである。どのようにすべきか、自分が素晴らしいと感じた女性の写真は掲載させてもらいたい、されど、、残念ながら私の中でこのことについての完全な答えは出ていないのだがとりあえず当事者本人からの連絡には誠意を持って対応すること、というだけであろうか。
しかし世の中には自分のことでもないくせに偽正義をふりかざすバカに煩わされることも多くこれはもう何か造り出そうとするものの宿命と思ってあきらめるしかないのだけど。
たとえば少々無粋な妥協案であるがこのようにわずかなモザイクで許されるということもあるであろう。
かわいいロケットの時代
MY菩薩乳様、後にAV女優がこれほどアイドル扱いを受ける時代がくるなどということはまだ想像すらできない時代でした。
普段から風俗で遊び慣れている人、あるいはそれほどではなくとも行くことにさしたるためらいを持つようなことの無い人にとっては「行けない」気持ちのほうが理解しにくいのかもしれないが、しかしそんな人でも初めて行ったとき、しかもそれが自分の童貞を終わらせてもらうためであったとき、などの気持ちを思いだしてもらえれば、風俗に行くということもそこそこの勇気や決断を要するものだということはわかっていただけるかもしれない。大雑把に分けて
- 彼女や奥さんとだけエッチはして風俗は行かない人
- 彼女や奥さんなどがいるが風俗でも抵抗なく遊ぶ人
- 恋人などを作ることはできないので風俗でもっぱら遊ぶ人
- 恋人などを作ることができないうえ風俗へいくこともできない人
の4パターンがあると思われるが人も動物と同じように生存競争を勝ちぬける者だけが生き残る価値があるのだとしたら本来3.4.の人などは存在する意義もない脱落者にすぎないのかもしれないが幸か不幸か人間においては動物と異なりこのようなオス失格者であっても生かせていただける文明を築いてきた。そして風俗は動物としての人間と動物とは異なる秩序を自らにもうけている人間との兼ね合いをうまくとらせるために人間が生み出した最も偉大で必要欠くべからざる職業であると思われる。
3.と4.は本来境界があることさえ不思議に思われるかもしれないがしかしお金があっても4.から3.になれない人は案外私が想像しているよりも多いのかもしれない。人間は動物本来の本能を自分の中に感じ取ることができる性質を残しているから自分が生物としては存在する意義がない4.に属しているということを忘れ去ってしまうことができず、心の中ではみじめな脱落感をつねに抱えて生きていかなくてはならない。そのような思いを芸術作品などに昇華できる人なども極めてわずかなのであるし。
確かに風俗に行くには女性と相対する恐怖以外にも繁華街で客引きにしつこく襲われるとかいう直截的怖さもあるしなかなか大変なものであるがしかし彼女を作るということに比べたらやはりこれはきっとはるかに易しいことに違いない。そう、それこそ彼女無しで一人でディズニーランドに遊びに行けるかどうかの勇気のようなものであるし、スピード恐怖症の人が遊園地のジェットコースターに乗ったり、泳げない人が海やプールに入ることと比べたらきっとできるに違いない、などとあれこれ論理的に自分を説得してみるのだがなぜか得体の知れない怖さがあるのはなぜなのだろうか。
やはり女性に自分がどう思われるのかを異常に強く意識しすぎて自分を女性という生物の前に出すことができなくなってしまうせいなのか、または女性と相対することでさらに自分のみじめさが顕わにされてしまうことをより恐れてしまうためなのであろうか。
特別に自分を理解してほしいなんて思っているわけではないのだし、そう、ただ最後にたどりつくおっぱいが欲しいだけなのにね。
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