MY巨乳史特集5「MY巨乳史ゼロ 追憶のルーツへの旅 前編」

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前 編

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とある日の小学校からの帰り道、淡い夕方の明るさの中、歩道の向こうから歩いてくる女性。

学生だったのか、主婦だったのかOLであったのか、それはもうわからない。その女性が赤い薄手のセーターを着ていたことだけが思い出せる、髪はパーマヘアであったような気がするが。胸の形がはっきりわかるほどの距離に近づいたとき、私は自分がその膨らみに視線が釘付けになっていたことにはっと気がついて突然照れくささと罪悪感にとらわれた。

それはつい先日雑木林の中に捨てられていた卑わいな雑誌の雨でよれたヌード写真の記憶が重なったせいであったのだろうか。ブラジャーの表面のごつごつがセーターの上に筋状の模様を浮かびあがらせ、それはゆっくりスローモーションのように私の目の前に近づいてそしてすぐに後ろ姿に変わった。

そのとき心に芽生えた疑問は今も続いている。何一つ変わってはいない、何も解決していないしそして何も謎は解けてはいないままである。どうしてそれが自分を引きつけるのか、、、

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1945年の敗戦の後、復興を開始しした日本でまず流行した風俗がストリップであったという。これはおそらく1950年ごろの写真であるがなかなかの豊乳ダンサーであることが見てとれる。しかしもちろんまだ私はこの世にはまだいない。

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1960年代の代表的な漫画の一つである「ハレンチ学園」その映画化においてヒロイン柳生十兵衛(こういう名前であるが女性です)に抜擢された児島みゆきさん。わずかな膨らみがやっと確認できるほどのかわいい胸なのに自分の中では彼女は不思議なくらい豊かなおっぱいの記憶を残している。豊乳というのは見る者が自ら作り出している幻想なのかもしれない。

私の中で60年代と70年代の間には深い溝が存在している。私がいくら自分の中の古い乳房記憶を呼び起こしてもそれはどうしても1970年の壁より前に遡ることができないのだ。これはきっとすごく古いと思って調べても確認するとやはりそれは70年代なのである。しかしこれは無理もないことでもある。

なぜなら週刊プレイボーイの創刊そのものが昭和41年(1966年)でしかもヌード写真を多く掲載するようになったのがちょうど1970年ごろ、平凡パンチは昭和39年が創刊であるがそのときは写真主体とは別の種類の雑誌であり、ヌード、水着、音楽に車、といった若い世代のカルチャー雑誌となったのはやはり1970ごろなのだ。

60年代の巨乳の多くは一般の人が普通の本屋ではほとんど目にすることのない成人向け雑誌の中の、しかもきっとその中でもほんの一部分でしか目に触れることはできず、それらは時代の流れと共に存在したことすら人々の記憶から葬り去られてしまったのだから。

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小早川恭子さん。ピンク映画の俳優さんでさえもこのころは一般雑誌ではこのように乳首を隠すことが普通であった。このくらいのかわいい膨らみでも「ボイン」のタイトルがつけられていたし私たちもたしかにそのように感じていたのである。

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1963年ごろから写真が流行となり私も小さい頃テレビで毎年数多くの新しいカメラのCMが放送されていたことをよく覚えている。「ヌード写真」の発展もこのころに同時に進んでいたようで後に私が平凡パンチや週刊プレイボーイで見ることになる秋山庄太郎、早田雄二、柿島隆など大御所が新鋭カメラマンとしてヌード写真雑誌で活躍した。これら写真雑誌はあくまで芸術指向でありエロ雑誌とは異なるものではあるが女性のヌード写真においてその乳房の存在が何より重要なポイントであったことは言うまでもないだろう。だから「巨乳」というよりはむしろ「美乳」の歴史をたどるのに良い美しいおっぱいがたくさん発掘できる。

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ハの字に開いた日本女性の典型の一つ。まだ体の横幅に比べて一回り小さいおっぱいであるがこのままの形でその後20年をかけてその大きさは成長していく。現在のAVで多く見られるこのハの字型爆乳の基礎はすでにこの頃に登場しているのである。

巨乳(ボイン)であることが初めて誉め言葉して使われたということがまさに60年代と70年代の境目付近であったのではなかろうか。 これは暴論であるかもしれないが江戸時代300年にわたり、あるいはそれ以前からかもしれないが果てしなく長く日本人を支配していた「鳩胸出尻は下品で醜い」とする女性への審美基準が明治以後百数十年を経て1970年のころまさに逆転が起こったのではないだろうか。

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私がいくぶん不思議に感じたのは1963年当時すでにかなりの頻度でボインという見出しが見られるようになっていることであった。私がそれまで思っていた大橋巨泉さんが初めてボインという単語を用いたという逸話よりそれは前の話になってしまう。だから実はこの語の創始者は大橋さんではなく他にいるのではなかろうか。しかし考えてみるとその後用いられるようになる巨乳という単語も誰が最初に用いたのかはなかなか謎である。

ボインというタイトルでもこのようにかわいいおっぱいというところがいかにもこの時期らしい。おそらく現在のカップ表示にあてはめたときCカップぐらいのところがボインと呼ばれるラインであったようである。そしてDカップ、というボインのベンチマークが登場するのはその数年後、78年にワコールがカップサイズ表示を開始した後のこととなる。

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前田美波里の資生堂ポスターでの登場は陰湿さの無い健康的なグラマラスボディーの美というものを時代を先取りして世に知らしめたとも言えるできごとであったろうか。1960年代にすでにこのようなプロポーションのモデルが現れていたことはまさに驚異的とも言える。しかしそのころ前田美波里さんの胸がことさら騒がれたという記憶はない。受け入れる男性の側にまだ胸だけを特別に扱うというフェティシズムの意識は少なかったのだろうか。アグネスラムブーム以降に現れていたらなおさらにトップグラビアアイドルとなれたのかもしれない。登場する時代が早すぎたのである。

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2000年の今見ると顔の化粧法の違いが大きいのでいったい何歳なのかの推測がつけにくいかもしれない。撮影当時左のクララマリさんは18歳右のこだま玲子さんは20歳ということである。日劇ミュージックホールと言うとむしろ1980年ごろ有名だったダンサーである松永てるほさんを思い出す方も多いかもしれないがさらにそれより遡ること10年以上前からこのように豊かな胸の人が所属していたことは当時の私は知るよしもなかった。日劇というのが何なのかも知らない歳であったのだから。

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もちろん比率は2000年ごろとは比べものにならないほど低かったと考えられるが60年代にもバスト(当然トップバストを指す)が100cmを越す豊かな胸女性は多く存在した、しかしそのことが特別商品にならなかったようでそのため雑誌に出る頻度も当然のことながら非常に少なかった。当時のブラジャーは機能的ではなくまた大きなサイズもほとんど販売されていなかったためこのような巨乳な女性はしかたなく妊婦用ブラを使うことも多かったのだそうである。

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ちょうど1970年ごろではなかったかと思うのだが「泣くなおっぱいちゃん」(あるいは泣くなボインちゃんの記憶違いかもしれないが)という歌で自分の胸写真をレコード会社でプロモーションで配って歩いたという歌手がいたのであるが何という名前だったのかどうしても思い出せずにいる。この吉成さんも歌手とのことであるがどんな歌を歌っていたのだろうか。

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私は2000年現在に見られる巨乳愛好の流れの元となるようなモデルやタレントが登場するようになるのが70年代の半ばごろからと考えているが、しかし初めてグラマーな体型の女優の人気が高まったのはそれよりさらに20年以上も前のまだ日本映画が隆盛であった50年代に遡る。

テレビドラマ俳優というものもまだ存在しない時代で必然的にそれは映画スクリーンから登場するのだが後に大女優となる京マチ子さんなどもグラマー肉体派女優としてデビューした一人であったというのは私には驚きであった。私の知っている巨乳の時代の夜明けよりさらに10年以上も前にすでにこのように豊満なおっぱいを見せていた日本女性が多数いたことは新鮮な驚きであった。

しかしさらに調べていくとわかるのだがこの和製グラマーの人気が60年代にはいるといったん表舞台から姿をひそめる。この原因はなかなか単純ではないのかもしれないが陳腐な分析をすれば価値観がダブル化、さらには多様化へ移っていたこととその後の歌謡アイドル人気の元となる「かわいい」女性を愛好する男性の指向が強まっていたということであろうか。

しかし60年代にも前田美波里さんやほかにも大柄でグラマーな女性の出現もしっかりと続いていたのであっていわば60年代の10年間は続く70年代に起こる巨乳ビッグバンへの準備時期であったのかもしれない。

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前田通子さんはスキャンダル(と言っていいのでしょうか?)で映画界を去ったためにその後のテレビ世代の人たちにはほとんどその名を知られることが無く終わった。 しかし1950年代から60年代にかけての和製グラマーブームの先がけとして多くの映画で活躍した、大型おっぱいを持つグラマー女優の先駆け的存在であった。

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50年代は短いながらも日本における映画の黄金期であり映画が娯楽の王様であった時代であったという(親にも聞きましたが)松竹、新東宝、そして日活などが競って女優を売りだした時代である。新東宝の前田さんに対抗し日活が擁していたグラマー女優の代表がこの筑波久子さん。彼女はその後外国に渡りプロデューサーになり2000年の今でも現役で活動されているそうである。

他にも泉京子さん、万里昌代さん、毛利郁子さんなどの名があげられるがいずれ画像を入手したら追加掲載してみたいと思っています。

50年代のグラマー映画女優の全盛期が終わり60年代のテレビの時代を迎えると映画は次第にピンク、ポルノへと活路を見いださざるをえない状況となっていった。しかしまだ完全にポルノ映画というカテゴリーが確立されてはいず、通常の映画の一部分としての「成人指定映画」の中で次世代のグラマーアイドルが登場する。しかし彼女たちはその成人映画というカテゴリーで活躍したゆえに一般への知名度は低く限られた世界でのみ崇拝される存在となってしまった。おおきな胸が再び日のあたる表側の世界へ戻ってくるのは70年安保の終結以後のこととなる。

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history1でも登場していただいた三原葉子さん、おぼろげであっても私がその名を記憶しているほどであるからその人気は相当なものであったのだろう。前田通子もスクリーンから去り、50年代のグラマーブームの後、テレビの急激な発展と共にお茶の間で家族全員が受け入れ得る女性の人気が高まり、露骨に肉体美を表すものは次第に世の中の裏側の存在へとなっていく。さらにミニスカートの元祖ツイギーの来日などもあいまって時代は痩せたかわいいアイドルブームへと様変わりしていた。

しかしそんな時代背景の中でも「グラマーという語は三原葉子にしか使ってはいけない」とまで評された彼女はこの世界ではまさに特別な存在で現在でも三原葉子さんの業績を検証するページもいくつか存在する。新東宝の映画と言えば三原さん、と言われるほど多くの映画で活躍した彼女はこの時代にすでにこの素晴らしいプロポーション、2000年の今見てもこの胸は絶品である。浅学な私の賛美などは不必要であろう、とにかくじっくりこの素晴らしい胸を見こんでみてください。

注)「三原葉子の部屋」は彼女を最も深く研究している優れたページだと思います。もし三原葉子さんに興味を持たれたらこちらを是非ごらんになることをお勧めします。

おっぱいの面より1960年代をうまくひとまとめで説明することはかなり困難に思われるがそれは当然のことでメディアの種類が多様化し女性の望む女性の姿、男性が望む女性の姿なども年齢層などにより多様化していく時代だからである。ほとんど映画のみからグラマー女性が登場していた50年代と異なりテレビ番組、製品ポスター、雑誌グラビアなど様々なメディアからいろいろな形で新しいアイドルが登場
することになるからである。

60年代も半ばにさしかかり映画もかの有名な「007シリーズ」の頃になると私の記憶にもおぼろげとはいえかなり明確なおっぱいの形が見えてくるようになる。父親が会社の帰りに読みながら持って帰ってきた新聞の中で見たものが日本女性で初のボンドガールとなった浜美枝さんの姿である。まさに痩せているけどボイン、スレンダー巨乳の元祖と位置付けられよう。しかし実は私は初めてこの映画を見たときストーリーの半ば過ぎまでずっともう一人の女性、若林映子さんのほうをボンドガールであると勘違いをしていた。

浜さんは映画中でほとんど白い素朴なビキニ姿であるが若林さんのほうがファッショナブルでしかも稟とした姿はその後の日本のオフィスで活発に活躍する優秀なキャリア女性の姿を先取りしていたように思われる。映画ではわずかにあまり胸がわからないようにビキニ姿を見せるがその胸も実は浜さんをも上回る見事なものであったように思われるのだ。

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日本の自動車テクノロジーの急激な進歩を代表していたトヨタ2000GTを映画の中でかっこよく操っていた若林さん、後のテレビの人気番組プレイガールに見られるセクシーでかつ強くアクティブな女性たちのイメージの原点になっているのではないかと私は推測している。ボンドガールは浜美枝さんだったので体をあまり出さなかったものの実はその胸は脱ぐと浜さん以上に豊かだったのではないだろうか。

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浜美枝さんが着ていたまるで下着のような素朴で純白のビキニはかえって後に機能、デザインとも進化したビキニ以上に原始的なセクシーさをかもしだしていた。ボンドガールと言いつつもダイナマイトバディを誇示するというものではなく逆に日本女性の華奢で控えめに盛り上がった胸の隆起、線の細やかなライン魅力のほうを感じさせてくれていた。

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60年代当時はまだ「読者モデル」などというものは存在しなかったがプロモデルとしてそれだけの仕事をしている人たちとは別に一時期だけヌードモデルとして登場する人たちも多くいたようである。佐々木礼子さんもそのような人だったのだろうか、今となってはよくわからないのだがこの写真のころ19歳と書かれていたと思うので2000年を過ぎた今は50歳くらいでしょうか。

ご本人もしご覧になっていたら連絡してくださるとうれしいです。30年を経た今見てもあなたのおっぱいは素敵ですよ。

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60年代の半ば前このような脱色茶髪の女性はおそらく街でも非常に目立った、というか特別な職業の人と見られてしまったのだろう。しかし2000年のコギャルと髪もメークも著しく類似していて今になって見るとむしろ違和感が無いところが不思議である。体に合っていないビキニもかえってエッチ感が出ていていいですね。

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バチェラーなどの外国ポルノ紹介雑誌が登場する以前はこれらを専門に紹介する雑誌というのは無かったように思えるのだがどうなのだろう。スクリーンが別冊でポルノを扱うようになったのも70年ごろからであったと記憶している(間違っていたらすみません)

そんなわけで60年代の洋ものポルノに現れる巨乳さんをわずかだが載せてみよう。そのころは洋物ポルノの無修正のものを「ブルーフィルム」と呼んで密かに隠れて映写会などが行われていたそうだがもちろん子供だったのでそれ以上のことはわからないのですが。

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そうだ、青山ミチさんだ。そうなんだ。毎日この特集のためいろいろと記憶をめぐらせていた私にとって最高の、おそらくは「再会」をしたに違いない胸が青山ミチさんである。

意識的にその名がはっきり記憶されるのは彼女が歌をヒットさせていたときのことではなく、悲しいかなその後覚醒剤であったかで彼女が逮捕されたほうの雑誌宣伝記事であった。しかし彼女の写真を見た私の脳の古い記憶野で眠っていたDNAが突然蘇り私に語りかけた。「私はかつて必ずこの胸に出会い、そしてこの胸にあこがれたことがあるのだ」と。

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当時100cmという数字は特別な響きがあった。しかもこの痩せた体での100cmである。またもちろんそのころはわからなかったことであるがこの頃のビキニはその後進化したビキニと異なり胸の形を造ったり保ったりさせる、増してや寄せたり上げたりなどする機能など皆無のただの布だったのだ。しかしそれでこのお椀型に保たれたおっぱいは非現実的とも言える魅力であった。

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