巨乳を考える日々の讒言 その20

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おっぱいの役割と美しさについて思う

よく「機能美」というようなことを言うことがありますが、ことおっぱいに関してはかなり複雑なあてはまりかたをするように思える。そもそも「機能美」とう概念を人体にあてはめることはどうなのかな、という疑問もある。

確かに速く走れる脚はそのような意味で美しいし鍛え抜かれたアスリートの体の線の美しさというものはよくわかる。しかしそれは「機能」の意味を機械の機能のようにとらえた場合のことであって効率だとか生産性だとかだけを重要視してきた人類の歴史が生み落とした美の概念なのではないかなと思うのである。

友人に古いアメ車のマニアがいてごてごてしたキャデに乗っているのだがもうこの車など横幅が広くて日本の道ではどうしようもなく、普通の車庫、駐車場にも入れられず踏切の段差は越えられず、燃費は悪くでもう機能美という観点から見たらマイナス100点な代物であるがしかしあたくしなども実はこういうものがひどく好きである。人によってはそれは機能美を認めていてもそればかりだと飽いてくるアンチテーゼな心理の現れだよ、と言う意見もある。

例えば急いで何かを届けるというような必要性が出てきたときに選ぶ車は小さく小回りがきいてそこそこ荷物はつめてその上げ下ろしもしやすい、ということで軽の1ボックスワゴンみたいなのが一番である。軽の1ボックスワゴンもまたそれなりに美しいと思うことはあるが、世間一般的に用途をあげずに軽1ボックス車とフェラーリを並べてどっちが美しいと思う?と質問したらやはり後者を選ぶ人のほうが圧倒的に多いであろう。

何かの目的を果たすために徹底的に無駄をそぎ落とした形というものが美しいということを認めながらも実は人は無意味と思えるようなことがらに価値を見いだすものである。だから移動する、物を運ぶ、それに加えて長時間乗り続けても疲れない、安全性が高い、というような機能を追究した形に感じる美とは逆に実際の公道では意味がない速いという機能にのみフォーカスしたスポーツカーのかっこよさ、速いということさえどうでもいいでそれこそ機能をわざと無視するごときアメ車のかっこよさなどいずれもそのようなものであろう。

現代はミスコンやプレイメイト、そしてグラビアアイドルに代表されるように授乳のためのおっぱいというような本来の機能にはいっさい無関係な体の美に重きを置きすぎてきたところがあるが臨月を迎え乳腺が熟し今にも母乳があふれんとしているおっぱいの美しさはまさにおっぱいが持つ本来の「機能美」にほかならない。しかし男性を誘引するということも「機能」ととらえるのならば上記のミスコン、グラビアでのおっぱいも機能美だと言える。しかしこの場合どういうおっぱいがすぐれた誘引機能を持つと判断できるのか本当は明確なクライテリアを設けることはできないはずなのである。

何のしばりももうけずにおっぱいの美について話あったとしてもこれはスポーツカー至上主義の人とアメ車マニアの人では車に対するかっこよさの話がまったくかみあわないのに同じコンテストで意見を言い合っているようなものであろう。 たしかに世間一般で美乳と呼ばれる人たちのビデオや写真をみるとその美しさを理解できるもののそうでない胸の美しさにもどうしても惹かれてしまうのでおっぱいの美についての優劣判定というものをする気持ちにどうしてもなれないのである。

胸の小さい女性でもきちんと授乳はできる人はたくさんいますしその逆に大きいのに乳があまり出ない人もいますから個々の乳腺の機能のほうが重要、ということなのでしょう。しかしおそらく一人の赤ちゃんが一定間隔で乳を飲む場合と子だくさんでいちどきにたくさんの子に連続して授乳しなくてはならないような場合に乳腺の量というのも効いてくる、つまりキャパシティーが高くなるのかなと推測しています。乳腺の発達はもちろん授乳のための機能の根本であるのですがおっぱいそのものの形や弾力などにも影響していて脂肪だけでは形がつぶれやすいふわふわなおっぱいになるわけです。

よく胸が垂れてこないように大胸筋を鍛えておく、と言われますが正確にはクーパー靱帯を強くしておくあるいは靱帯の数を増やしておく、ということなのでしょうか。胸の豊かな人は走ったときの縦揺れでこの靱帯が伸びたりときには切れてしまうことがありそれを防ぐためにもよいブラが必需品ということになるのでしょう。よく上図などを見て疑問なのは乳頭は授乳に必要な大きさあるいは高さを有していればよいのでしょうけど人によって乳輪の面積が広くかつそこが盛り上がっている人とまったくそうでない人がいるのは生理学的にはどういう違いがあるんだろう?ということです。まず乳輪というのはなぜあるのかというところから理解しないといけないのでしょうけど。

BREASTERさんが掲示板で安部公房氏の言葉を引用してくださったがたとえばこのようにテレビを見ることなど法律上はおろかマナーにおいてさえ何の問題もないにもかかわらず「おっぱいのことだけを思いながら見ていること」の後ろめたさは感じているし、「そのような目で見られていることの不快さ」も感じることはできているんです。     胸への憧れは伝わらないひとりよがりな迷惑愛なのでしょうか。

こんな世界的に優秀な方のそのすごさに感動しつつそれでもお胸に惹かれる。感じても口に出してはいけない暗黙のルール。常に毎日自分の下劣さを感じながら生きるのもフェチの宿命でしょう。

仕事をするにおいてはやっぱりこんなものは近くに無いほうがよい。「邪念を抱く男のほうが悪いのだ」と言う女性もいらっしゃるとは思うがこれは酷すぎる正論というものだろう。

おっぱいと口コミ情報

昨年来の古瀬アナブームは今回古瀬さんが全国放送番組で初登場するに至っておそらく終盤にはいっていくものと思われるがそれにしてもなぜ彼女がここまで大きな話題になったのか。

確かに豊かでいいおっぱいなのであるがしかしいくらスイカップとニックネームをつけられても実際のところ松金さんや夏目さんにはやや及ばない程度であろうしもし同等であったとしても彼女の胸のみが持つ特別のオーラがあるかと問われればそういうことも特に無いのではなかろうか。しかるに彼女はここ1年で日本で最も有名な豊乳ホルダーとなった。

別のところでも書いたが彼女の話題は1969年にニューヨークのウォール街で起こった巨乳女性にまつわる逸話と非常によく似ている。ご存知でない方のために再度手短に説明すると、ウォール街の電車の駅にすごいグラマー美女が現れるという噂が広まりある日駅におびただしい男性の人だかりができ、新聞やテレビ局までその様子を取材に押し掛けたというものである。当の女性はバスト105cmくらいの巨乳女性であったがしかしアメリカにあっては特別に巨大というわけではなく、しかし街の噂が広まりそれが群衆心理へと発展した典型的例である。

古瀬さんはNHK山形放送局の契約社員のような立場であったようだが全国ネットのテレビで見ることができない、というその一つのことが決定的な要因となりまずインターネットでその噂が広まり、それにマスコミが後追いして話題を盛り上げる役割を果たした。今は「世間の噂」はインターネットと同義であり、ネットにおいてはすでに彼女の話題はとっくに絶頂期を過ぎているのだがマスコミのほうが未練がましく話題を終わらせないようにしているようなところがある。

一方インターネットでいくら噂が広まってもマスコミがあえてとりあげない巨乳ネタというのはいくらもあって、これまた非常に有名な話であるが数年前に複数のページが閉鎖を余儀なくされるほど話題が加熱してしまったコンビニエンスストアー勤務の普通の女性、素人投稿板で根強いファンを持つ一般の女性など。今は雑誌の仕事に携わる人たちにインターネットは紙とペン以上の必需品であるから当然巨乳ネタを扱う雑誌社の担当者もみなこれらの噂をかなり知ってはいるもののとりあげようがない。とりあげてしまってプライバシーの侵害問題で同じマスコミからも非難されたりしては面倒だし、政治家スキャンダルなどと違い訴訟等の問題のリスクをとりえるような大ネタでもない。

所詮はお遊びネタでしかないのだからその意味で女子アナウンサーというのがほどよく取り扱える立場、つまりまったくの一般人ではない(自らの肖像をテレビに出しているからそれを話題にされても文句を言うわけにもいかない)、さりとてYCタレントのようにこみよがしに水着露出をしているわけではないので一種の「発見」的楽しみを提供してくれる、などである。ゆえにあまりにそのことで有名になってしまうと結局本人が望んでいたわけでもないのに勝手にブームがきて勝手にブームが過ぎ去ってゆくものなのであろう。しかし自らそのブームを受け入れてしまった以上は、そうですね。やっぱり水着姿くらいは見せていただかなくてはねえ。

病状悪化日記

今年(2004年)はPC故障のためトップページでの開設記念の挨拶を省略させていただくことになってしまった。しかし早いもので4年目である、このページを開始したきっかけ、というかそうさせた心理は極めて微妙な偶然と言えるものであるがしかし始めてからはなかなか面倒なこともあった。

いやおうなしにのしかかるプレッシャーやそれによるあせり、なぜかページを始めて以来徐々に薄れてゆくグラビアへの熱、それに反してどろどろと自分の内側で手に負えなく育ってゆく身近な人への盗み見心理、、そしてなにより自分は本当のおっぱいを何も知らない。だからこそいつまでも未知のものへの憧れから1歩も脱却することなく妄想や想像だけが果てしなく進化してしまっているらしい。しかしある日それらがすべて虚構だったことが思い知らされる日が来てしまうのではなかろうか。もしかするとこうしておっぱいフェチとだけ交流しているうちにひねくれ者の私はいつしかフェチから解放される日が来るのではなかろうか、などと思ったこともある。

なぜフェチはフェチになってしまったのだろうか、原因はきっとある。謎ではない、これはけっして治らない病ではないのかも、、しかしどうどうめぐりを続けたあと常に回答は単純なようだ。刺身が好きで好きでしかたない者にとってダイコンはつまでしかなくつまのよさを理解したとしてもそれで刺身好きがいくらか緩和されるなどということは無いのである。

やっぱり胸は大きければ大きいほどいい。そうでもない胸に魅力を感じることとそれは矛盾しない。私のフェチは反相対性理論である。体に比して相対的に大きい人ではなく絶対的にたっぷりしている女性のおっぱいが好きだ。となればぽちゃで体全体が大きい女性にどんどん傾倒していくことなど自明の理ではないか。こんなことを気がつくのに20年以上もかかってしまったのだから。

今年は若さの勢いのあるシャラポアに敗れ連覇はならなかったセレナであるがその胸は健在、私としてはイローダ、セレナ戦を観戦したいものであるが。胸がじゃまで運動ができない。とはよく聞く事であるが豊かな胸をものともしないこのアスリートを見ると乳房をささえる周囲の部分の丈夫さが問題なのだということがわかる。

アメリカに行くとキュウリもカボチャもトマトもみな日本より大きく固いことにすぐ気がつく。さりとてきっとおっぱいは大きくとも固くはないだろう、、などということはない。物理学の法則は物が何であろうと公平に作用するものなのだ。同じ形で大きくなるほどその形を維持するためには頑丈にならなくてはならない。だからこそ繊細な欲望を満足させてくれるほどよい柔らかさと自分を圧倒し包み守ってくれる強さのぎりぎりのバランスをもつ胸をいつまでも追い求めることになる。

満足感を得られるときに共通している心理は「予想していたよりもよい」である。 けっこう大きそうだなあ、、と漠然とした憧れをいだいていた人が実際は思っていたよりもさらに素晴らしい大きさであるときの喜びと半分の悔しさ。本当に大きい人はあまり目立たなくしていることのほうが多いのはこの点でもよいことなのかもしれない。頬を胸に押し当てたとき感じるその弾力や密度もきっと自分が想像している以上の至福感をもたらしてくれることはきっとあるのに違いないのだが、、

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