巨乳を考える日々の讒言 その21

窒息志願

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しきりに上着の合わせを寄せて隠そうとするもそのあまりに豊かな隆起にたちまち押し開かれ前のすそは御簾のごとく宙にたれさがる。私たちのマドンナはどこにでも、そしてほんの少しの数だけいる。きっとこの女神の近くにも毎夜その膨らみに思いを寄せて悶々と過ごす哀れなマニアがいるのに違いない。

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見たことがあるような気もするのでエキストラさんではないのかな?それともエキストラさんの常連さんなのかしら?ぽちゃ巨乳を愛好する心理の微妙な神経質さについてはまた後日書きたいと思っています。ああ、でも抱かれたいなあ、抱っこして!

人体改造の世紀へ(豊胸手術時代を考えるレター その1)

いつかはこの問題と正面から向き合わなくてはならないということはわかっていましたがそれでもあまり考えたくないな、という思いでいました。しかし90年代末に始まる空前の巨乳ブームがこのことを加速させ、思いの外早く考えなくてはならなくなったようです。

私はもともと性善説というか、よけいな疑いの気持ちを持たずにいいなあと思ったものは信じたいという人間です。女性のおっぱいは畏れと崇拝と恨みと、それこそ自分の感情のすべてが混じりあう存在ですから自分が愛したそのおっぱいが実は作り物であったことを知ってしまったときの悲しみや落胆もことさら大きいものです。しかし女性の側からしてみれば「あんたがた馬鹿なおっぱいフェチが巨乳巨乳とそれにしか価値をおかないようなことばかり言うもんだからこっちだってしたくもない手術をしなきゃいけないのよ、結局人工乳を蔓延させているのは胸好きの自分たち自身なのよ」という言い分にもなるのでしょう。まず最初に一つ申し上げておきたいことは私はすべての豊胸手術を一切否定する立場ではないということです。これは乳ガン手術後の再建といった特別な場合のみを指しているのでもありません。

ミンカ、バスティダスティー、ウェンデイーウッパース、そして瀬名さくらといった豊胸していることを自ら売りにしている人たちはそれはそれでもうまったくアニメやコラージュの世界を現実に再現しようという独立したジャンルとして見ることができるからまったく否定はしません。しかし豊胸しているのならこのようにはっきり明言してほしい、などという願いもきっと鼻先でせせら笑われるような無力なものにすぎないでしょう。芸能事務所にしてみれば「おれたちは遊びでやってるんじゃねーんだよ。売れるアイドル、そして芸能人を育てるのにいったいいくら投資が必要だと思ってるんだ、大きい胸のビキニ姿だけで食いついてくるやつらがこれほどたくさんいるんなら手術なんて安いもの、芸能人として成功させればもう水着になる必要もないのだし、頃合いをみてまた胸に埋め込んだものも出してしまったってもう誰も注意もしやしない」だから私たちにできることは騙すのなら死ぬまで騙し通しておいてください、と願うことだけなのかもしれません。あるいはもうグラビアを見る必要もなくなった。あとはただひたすら市井で本物を探しもとめるのみということなのでしょうか。

グラビアアイドルで豊胸手術が蔓延するかもしれない原因の一つに日本女性全体の巨乳化が実は関係しているのではないかと考えています。市井とさきほど書きましたが駅の構内でも繁華街でもしばらく眺めていればすごい胸の女性が次々と現れます。おそらくはグラビアアイドルにおけるトップクラスの人たちの胸をも軽くしのぐものも多く見られます。しかしそのような人もほとんど顔の器量は30人並みであったり体全体も大きくスタイルも良いとは言えない、すなわちとうていグラビアモデルというものになれるような人ではない場合がほとんどです。そこにまさに豊胸手術のはいりこむ必然が生じるのです、グラビアモデルになれるスタイルや器量などを持ってしかも巨乳、という人材となるとやはり非常に数が限られるのに、しかし男性は街で大きな胸を見ることに慣れてしまってくるので今更あまり大きくない胸のグラビアモデルを売り出すにもよほどその他の面ですぐれたタレントを備えていないと難しいことです。そして安直な策の一つとして豊胸手術によってその部分をクリアーしてしまおうということになってしまうのではないかと考えています。

WWEのディーバたちのように一律豊胸した風船胸が居並ぶグラビアなどいかに空しいつまらないものかはすでに私たちはその先例を見ているはずなのにその後追いをしようというのはなんとも情けないことです。しかし器量やスタイルなど無視して天然の巨大乳の人の写真がほしいと願ってもそれもまたマイノリティーなのでしょう。そのような少ないニーズをも埋めてくれる隙間産業的雑誌もあるにはあるのでしょうけど。おりしも今年行われたアテネオリンピックではかつてないほどドーピング問題がクローズアップされたのですが筋肉増強や興奮など古典的な薬物ではなく、もはや今はDNAから操作する遺伝子ドーピングの時代に突入しています。しかしこの遺伝子ドーピングはドーピングとは言えない人体改造の領域にはいりこんでいます。もし人間にもカエルと同じように指の間に水掻きができる遺伝子が存在しているが長い進化の過程でワークしないで埋もれていたとしましょう、それを生まれたときから目覚めさせておいて器官形成期から水掻きができるようにする、そうしてできた人は「生まれながらに天然の水掻きをもっている」のでありなんら違反行為にもならないのです。

それにくらべればおっぱいを大きくすることなどいともたやすいことであるかもしれないんです。女性がきっとだれも持っている乳腺成長の遺伝子をきちんと働くようにしむけてさえやればどんどん巨乳な女性はできる、その人はジメチルポリシロキサンなどという無粋なものを入れているのではない、本当の自分のおっぱいである。すなわち「人工的に操作された天然巨乳」ということになるわけです。ここまで達すればフェチの意識の方もおのずと変革させられ、もしかするとそのときに巨乳フェチがなくなる日であるのかもしれません。

話がいくぶん飛躍してしまいましたがしかしこれから先の数年はきつい年月が続くのではないかと思われます。無粋なシリコーン包埋のグラビアに騙されたり疑ったりのくりかえしに疲れ、きっと形などおかまいなしの豊満系巨乳へと救いを求める人の数が必ずや今より増えることになるでしょう。

よけいなことを考えずにグラビアに見入れた時代はよかったな、そんなことを思わなくてはならない時期が来てしまったことが残念である。

鈍感と繊細の共存

ぎりぎりのめりはりをもとめる贅沢なフェチ?

先日尊敬する巨乳のオーソリティーの方と話をさせていただく機会を得たのだがおかげでまたいろいろなことを考える材料をいただくことができた。そこでその方から提示された疑問で「ぽちゃ系巨乳好きは本当に巨乳フェチと言えるんだろうか」ということがあった。その方に言わせるとかなりの数のぽちゃ系好きが実はおっぱいそのものが好きなのではなく ぷにぷにな抱き心地とかそういった全体の豊かさを胸の豊かさと錯覚してしまっているように感じ られるというのである。

おっぱいフェチの場合、体の大きさに対する乳房の大きさを公平に比較する ためにぽちゃの人についても痩せた人に換算すればどのくらいのカップに相当するか、を考えては どうだろう、と言われたのだがこれに対して自身ぽちゃ巨好きなあたくしとしては理解できる部分とそうでない部分半々といったところであった。

確かにその女性自身の体と胸の比率で比較を行うと ぽちゃな人はさほど巨乳ではないことのほうがはるかに多い。それはブラの数値でも簡単にわかる ことであるが例えばアンダー65のFカップならばトップは85だから比率は85/65=1.31 であるがアンダー95のFカップだと115/95=1.21でこの比率のみをアンダー65の人に あてはめればほぼDカップ相当である。

だが、、しかし、、 やっぱり私はおそらくどちらの女性 の胸にあこがれるだろうかと想像すればアンダー95のFの女性である確率のほうがはるかに高くしかも それはぽちゃ好きだからではなくあくまで胸がFであることで及第としてかつそれ以上の胸の豊かさを どこかに感じているらしいということなのである。

個人的な話を交えてしまって申し訳けないが今密かに憧れているぽちゃ巨乳な女性がいるのだが自分では冷静に見ればその女性の胸がその女性自身の大柄さに比較すればそんなに巨乳ではない、もし脱がして写真をとったらさほどはすごいと思う写真にはな らないであろうということをちゃんと理解することができるのだがしかし感情はその女性の胸にはてしない豊かさを感じている。たぶん脱がせたら大沢環さん程度であろう、ブラがIカップないしHカップであ ることを確認しているのでそこからもおそらくはそのくらいであろうと推定される。アンダーもちょうど 先の例にあげた90から95くらいではと思われるので仮に90のHカップであったらアンダー65の人に 換算したらFカップくらいであろうか(まあ世間的にはそれでも充分すぎるほど巨乳なのかもしれないが) この女性にあたくしが仰向けに寝かせていつまでもその胸にむしゃぶりついていたいと狂おしく思うこの 感覚はしかしその女性の胸がやはりある程度以上の大きさであるからゆえに惹起させられているものであ ることは確かなのだがそれをその女性の体との比率に帰して理由づけしようとしてもできそうにないのである。

今考えているのはおもに2つの理由があって、ぽちゃ巨乳好きはその女性の中での胸と体の比率以上に対自分と乳房の大きさのほうを優位に感じ取るのではなかろうか、ということが一つ。夏目理緒さんと小泉陽子さんはおそらくこのことを考える上でまさに対極にいる存在と言えるがたぶん小泉さんの胸の大きさをもってしても体との比率で見れば夏目さんのほうが巨乳と呼べるに違いない。しかしおそらく99%の確実さで二人を横に並ばせたら(まあありえない構図ですが)乳房の絶対的な容積は小泉さんのほうが大きいと思われる、つまりぽちゃ巨乳好きはその女性の中でのバランスを無視してしまう。いわばカメラマン的審 美眼を持っていないのかもしれない。

もう一つの理由はそのオーソリティーの方が指摘するように胸以外の部分の豊かさを胸に含めてしまう錯覚眼を持ってしまっていることである。しかしさすがにお腹とか脚とかを胸には含めないところがただのぽちゃ好きとは一線を画すところであるが乳房のついている胸全体 (少々わかりにくい表現ですが)裾野を含めて乳房ととらえてしまうところもあるようである。

巨乳フェチには自分のことをきちんと把握していない人が多いように思われる。かくいう自分も そうなのであるかもしれないが。そしてある写真によって自分の思っていなかった性質を発見させ てもらえることがあるものである。
1967年ごろの中村正也さんの作品、気に入っていままでとっておいたものである。当時まだガキだった私が「抱き心地」などというところに踏み込んで妄想をふくらませたのかどうか不明なのだが。

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