巨乳を考える日々の讒言 その24

2005年も終わろうとしていますが

昨年末の入院手術に続き今年は1年療養状態で街ゆく胸の鑑賞をすることもなく終わってしまいましたが残念なことにまた年明けより入院となってしまいました。 こういう状況になるほどに自分にとって価値のあることとは何なのかが嫌でも明瞭になってくるものです。

結局自分はおっぱいへの憧憬しかない、他の物などいかほどの意味もないのだなということをますます思い知らされます。傍から見るときっとなんとくだらない人生なんだろうと思われることでしょう。たしかに他人に表立って公言することも恥ずかしいことですけど気取ったり大層なことを掲げても増して意味のないことですから。

さて、またしても悪運強く戻ってこれた暁には何をしたものか、もっとも爆乳の彼女さんを、と言っても相手があることゆえどう逆立ちしても好かれない身としてはいたずらに時間を浪費することになるだけだしやはり風俗に浸ってみようかというのが一番現実的な案であろうか。 なんかいい方法あったらどうぞ教えてください(笑

cap5112702b

ふわふわタイプのかわいいおっぱい。でもなんかとても気に入ってます。

cap5120428b

この1,2年よく思うのは自分は必ずしも「巨乳フェチ」ではないのかもしれないな、ということである。しかしながら大きな胸を見るともちろん息が詰まり心臓をつかまれたような思いがするのでやっぱりフェチなのかなと思い直すこともありその両側で揺れているような状態である。おっぱいが好き、そしてそれは大きいほどよいこの疑うことすらなかった自己の定義。しかしなぜ大きいほどよいのか、それはなぜそう思うのか、どのくらいからその気持ちが満足できるのか、などをあらためてよく検証し直す必要があるのかもしれない。

日本女性乳房の質変化

きちんとした調査に裏付けられたものではないのだがこのところ感じるのは日本の女性の乳房が大きくなってきていることに加えて単にその大きさだけではなく、質が変わってきているのではと思うことが多くなった。

一言で表すと乳腺優位の密度の高いタイプになてきているということでこのことは東京トップレスの工藤さんも同様のことを言及していらっしゃった。乳腺優位は欧米女性に多いタイプであるがそのために人工か?と誤解してしまうほど立っていても形が保たれており、その中でも乳房の下側が発達している人においては上から乳房を引き上げるだけではなく下から押し上げる力があるので乳頭が前から斜め上方向を向いた状態となりまさに欧米モデルのような胸となる。

このようなタイプは昔からいなかったわけではないし、70年代くらいからのグラビアでも目にすることはできたがしかしその大きさはまだそれほど大きくはなく、巨乳さん(ボインちゃん)になるのはだいたい脂肪蓄積タイプでそれを内部の乳腺が補完する程度によっていろいろな形になるというものであたようだ。 いよいよ日本女子も乳腺が発達したずしっと密度が高いしっかりした乳に移行してきているのであろうか、しかしフェチの心理の立場からだとこのような胸は鑑賞の対象としてはとてもよいのだが甘えを拒絶する強さが感じられてやや近づきにくいものになっているようでもある。

今後はフェチの心理のほうも女性の変化に伴って変わっていくこともありえるかもしれない。

haramikie15500 kawaihina50925

左右のおっぱいが離れたいわゆる「離れパイ」はかつてどちらかというと美しくないものと男女双方から思われており、だからこそ「寄せて上げる」がブラに求められる基本的な働きだったのであるがこのごろは離れパイの魅力が自然に定着してきているようである。このごろのグラビアアイドルにもこの離れパイを無理に寄せず離れたままの良さを生かしている写真が多く目につくようになった。

cap51207mix01

千葉テレビさん、、やればできるじゃないですか!
一瞬の俯瞰、ゆ、揺れてるよ~ くろちゃん素敵~
(ほとんど脳細胞やられてます)

cap6010403b cap6010410b cap6010412b cap6010413b

フェチのメカニズムや本質を探究しても自分のフェチが治る回答が得られるわけではない。ならばなぜ探求などするのか。一つの考えられる目的としてフェチを自分の苦悩やカルマとしないため、つまり開放してやるためということがある。

どのようにしたら楽にフェチと共存していけるものか。とは言うもののそれはたやすいことではない。まず始末が悪いフェチの性質として24時間常に頭を支配しているということがある。大事な会議、商談の最中であろうと常に頭の中の一部はそればかり考えているからいつでも能力の半分くらいしか動員できないような状態にされてしまう。

もう一つはおっぱいフェチの場合、一人の女性のおっぱいで解決ができることではないと考えられるからである。マニアとコレクションはいつでもパッケージでいっしょになているようなところがある。何に関するマニアも多かれ少なかれその対象を集める。ただ1つの物を持って他はいらない、という事例を私は知らない。もっとも好きな1品はあるかもしれないがそれでも他のものも集めたいものである。あなたがおっぱいフェチならこれ以上はめったに出会えないような極上のおっぱいの彼女がいてもそれでもあなたの目は他の女性のおっぱいを四六時中サーチし続けるに違いない。

かつてのようにフェチに対する後ろ暗い感情で悩むということは少なくなってきているだろう。インターネットの発達で同じ趣味を持つもの同士のコミュニティーも容易に見つけることができて、なーんだこんなに同じ趣味の人がたくさんいたのだ、とわかり堂々としていられるようになってきている。しかしフェチの憂鬱の核はそういうところの問題ではなく、そのフェチを持ち続ける自分の不自由さのようなものを取り去れない、到達点というものがまるで見えないということではなかろうか。

cap6010705b cap6070109b

巨乳フェチ、あるいは乳房フェチそのものが何かの代替欲求であるかもしれないということが言われている、しかしキム・ミョンガン氏も指摘されているようにセックスの代替ではないであろうということは私も常々思ってきたところであるが、しかし「求める」ということは何か満たされていないものが存在するということに他ならないので、おっぱいを求めることによりいったい何を満たしたいのか、を探ることが胸フェチとは何の代替行為なのかを解明することになる。

さて、その乳房フェチという代替行為さえもが行えない場合さらにその代替の行為が枝分かれとして発生することは当然のなりゆきであるかと思われる。 その1例が「ブラ収集」、もちろんそのブラは新品よりもユーズド、それもどこのだれが使用したのかわからないユーズドではなく、憧れのおっぱいを持つ人が使っているそれであることが理想である。よって容易に人生ふみはずす落とし穴にもなってしまう。ブラ泥棒などしてはいけませんよみなさま。合法的解決方法はその女性と恋人どうしになって堂々とブラをもらうようになるかせめて捨てたゴミの中から使いふるしのブラを探すことであるがしかしそもそも前者のようなアプローチができない性質ゆえにこのようなブラ収集マニアになったのだからあまり役に立つ解決方法ではないですね。しかももし時間、労力、運ともにそろってその女性と恋仲になったとて、必ず乳房フェチは別の女性のブラも次々と欲しくなるに決まっているのだからなおさらたちが悪い結果になることだってありえる。

こうして書いていくとこのフェチはもうどうやっても救われようのないように思えてくるがフェチに終わりや完成がないのは人が生きていくにおいて「ここまでやったのでもう終わり」ということがないのと同じで別に問題になることではない。やりにくいのは男女との関係とかセックスと密接に関わる位置にいるフェチであるから問題になるのである。ガンダムプラモマニアだとか鉄ちゃんなど、まあ奥さんに「まったくいい歳してー」とあきれられるという問題はあるものの男女問題に直接関わってくるようなことはないからその点で問題になることではない。しかし結婚してから「君のことはきちんと愛している、でもおっぱいフェチはそれとは別物だから気にしないでくれ」などという言い分が通じる女性など1000人に一人もいないのではなかろうか。

Bra-DDD3b Bra-H6b

Bra2352fullb

おっぱい愛好はフェチズムの中にあっては最も一般的で世の中にも受け入れられているものの一つであり特に変態扱いをされることがない分逆に囚われているということが他人にわかってもらいにくいところがある。おっぱいにさほど固執していない人であってもセックスにおいて相手の女性の胸を愛撫したり吸ったりすることは普通に行うからそのような人から見れば「どうしてもおっぱいは大きいほうがいい」という意識はフェチというよりちょっとした愛好程度のものであろうと思うようで、だからもしすごく性格の合う女性とかあるいはセックスで性器の愛称が抜群に合う女性が現れればあっさりとそちらのほうが優位になるものだと考えられていて、そのような考えが実はおっぱい愛好の当事者たちの中でも自らのことをそのようにとらえている人が思いのほか多いようなのだ。死体愛好とか動物との性交といったものに対してごく普通のセックスとの距離がまったく無いために結局は性的欲求とごちゃまぜにされてそこから先は深く考えられることもないというのが現実なのであろう。

次におっぱい愛好と巨乳愛好の微妙な関係である。自分もいつも思い続けてきたのは自分は巨乳が好きであるが小さいおっぱいを嫌っているわけではない、ということである。パラフィリア(惹きつけられるものに偏りがある状態)の定義は主に人以外のもの、自己や相手を苦痛や汚辱にさせること、子供や合意しない相手と無理に関係したがること、とされていて例として獣姦、排泄物、幼女、死体などがあげられている。しかしこの定義は多分に犯罪行為の範囲を定めたり倫理的規範を定めるための目的がはいっているので女性の胸とか鎖骨とか脚とか手とかそういったところに固執することはそのこと自体危害や不都合を発生させるものではないので議論の対象にもされない、まあ好きにやっててくれ ということであろうがもちろんこれもパラフィリアに違いなく、かつその中で体の特定部位などの大きさが大きいほどよいと感じる状態が「マクロフィリア」である。 だからフェチの中でも大小が問題になるものとそうでないものがあるから、例えば脚フェチは脚が大きい(太い?)ほどいい、という人は極めてマイナーな存在で通常は脚フェチはマクロフィリアにはならないであろうがマクロフィリアに最もなりやすいのが「背の高さ」「太っている」そしてこの「おっぱいの大きさ」などである。

こうして一つ一つ分けていくとわかってくるのは対象となる女性のいろいろな部分の大きさに固執する性質の中でそれらを包括して背景に存在しているのが相手の女性そのものが大きいこと、すなわち「大女」愛好である。

背の高い女性を好む男性は自分より高い女性から見下ろされ抱きしめられることに憧れ、太い女性を好む男性は包みこまれることを願う、これらは完全に独立しているようでそうではなく、「大女」愛という大きなくくりの中ではっきりしない境界をもって分かれているのかもしれない。

さて話をおっぱい愛好に集中させるが世間で非常に曖昧な状況が作りだされているのが巨乳フェチと豊満巨乳フェチであり、後者には豊満フェチが多分に入り込んでしまっているようだ。しかしこれは先に書いたように両者を包括する「大きな女性」を愛好するベースがあるために生じる混乱である。

自分がこのことについて考えている仮説はこの2つを明確に分けることをせず、むしろ巨乳愛好の中に2人称的愛好と1人称的愛好の2種類があり、そこのほうが明確な違いがあるのではないか、そして1人称愛好のおっぱいフェチは豊満フェチの性質も合わせ持つのではないかというものである、2人称的愛好のおっぱいフェチは巨乳を愛好しつつも大小にとらわれないおっぱいそのもののフェチとなりえるものと考えている。豊満体系の女性の胸にあまりフェチ意識を感じないタイプの巨乳フェチはおっぱいについてそれを持つ女性との関係から客観的に見ることができる、つまり「2人称としての良さ」を感じることができる人である。それに対して豊満に惹かれる人は自分が包まれる欲望の強さが強いためそのようなとらえかたができない。無理にしようとすればできるのかもしれないが心のほうがついていけないのだ。

snap1193-N snap1198-N

谷間の魅力。そう、僕たちは最初に山を発見したのではなかったのでは。最初に谷を発見し、そして山の存在に気がついたんだったよね

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)